「見えないもの」には二つある。一つは文字通り「見ることができないもの」、そしてもう一つは「見えないとされているもの」だ。みんなが「見えないもの」とすることによって、それは「見えないもの」になる。存在は、ときに集団の意思に委ねられる。そうしたおぼつかない存在こそ、本作における「妖精」である。では、その「妖精」はどのような姿で現れているのだろうか。「ブス」「ゴキブリ」「マングルト」という題を持つ三部からなる本作では、ブス、老人、貧困家庭、カルト信者といった人々、誤解を恐れずいえば、社会的弱者とされるような人々が取り上げられる。たしかにそうした存在は、普段「見えないとされているもの」であり、それ自体が大きな「問題(=Problem)」ではあるだろう。しかし作・演出を手がける市原は、タイトルの「問題」という語に対して“Question”の訳を与えている。すでに社会の中に現れている問題だけではなく、目に見えない、すなわち潜在している「問い」として、「妖精」は舞台に降り立つ。
第一部「ブス」は、女性二人による漫才のかけ合いを中心に展開される。登場するや否や互いに「ブス」となじり合うさまには面食らうが、すぐさまブス=社会的価値が著しく低い存在という定式が、彼女らの中で深く内面化されていることがわかる。すると、漫才が中断され、不自然撲滅党代表の屁当弁憤子(べとうべんぷんこ)の政権放送が流される。彼女の主張は次のようなものだ。老人、ブス、天才などは「世界の調和」を乱す、不自然な存在である。そしてそれらは、社会から逸脱しており人類の安寧を損ねるため、ただちに殺すべきである——不自然撲滅党が掲げる「自然」や「世界の調和」というフレーズは、人々をある規範に従わせるための方便に過ぎない。また、その主張はナチス・ドイツの全体主義や、市原自身が本作の着想元としたと語る相模原障害者施設殺傷事件も連想させる。ある形を形成し維持するために、はみ出た部分をトリミングする。まるで眉毛を整えるように、惨たらしい粛清が行われる。
「世界の調和」を乱す不自然なもの。それはつまり、彼女らにとってのムダ毛のような存在である。「ハイジニーナ(=アンダーヘアを全て脱毛すること)」というコンビ名が示唆するように、忌々しいムダ毛を取り除くことと、目を背けたくなるような都合の悪い存在を排除する動機は通底している。それはひとえに、美醜という審美的な強迫観念や抑圧からくるものだろう。
だが第一部終盤、その抑圧を弾き飛ばすようにボケの方の欲望が一気に奔走しはじめる。「私、赤ちゃんが欲しいと思ってんの」「自分のがいい。ブスだけど自分の子どもがいい」と語り、風呂上がりに自らが放つ心地よい体臭に欲情する、と告白する。体臭。リビドー。妊娠。そうした生物学的反応は、審美的な抑圧から免れて存在する。そしてそれらは、他ならぬ「この私」の内部で起こる。そうした個人的な経験に直面したとき、目を背けたくなるほどに歪な私自身にようやく目を向けることができる。
ただし、ここではその契機をむかえるために、美容整形という条件が横たわっていたことを見落としてはならない。脱毛や美容整形という「セルフケア」によって、つるんとして均された、特徴を排した存在。他の誰でもあるような、いっそ「この私」でなくともいいような私。そうした存在になってはじめて、「この私」にたどり着くことができる、というパラドックスがここには残存している。
そうした美醜をめぐる問題は、第二部の「ゴキブリ」においてひとまず乗り越えられている。劣悪な環境に暮らす貧困夫婦が子を授かり、妻はかねてからの夢であったバレエの発表会に立つ我が子の姿を夢想する。舞台を彩るのは、「つり目」「受け口」「絶壁頭」などの特徴を持った子供たちの姿。それらは綺羅星のごとく光り輝き、「星座」のように美しい、とそれぞれの身体的特徴がここでは肯定的にとらえられているのだ。しかしその見方は、我が子の醜悪な姿と比べて、という危うい条件のもとに成り立っている。
大量の害虫駆除剤を誤って体に取り込んだことにより「異常」が取り憑いてしまった妻の子は、およそ人間とは思えない異形の様相をしている。貧困や家庭不和、疲労の果てに手にした新たな生命は、さらに目を背けたくなるような現実の生き写しであった。しかし、狂気を孕みつつも妻は、他の子どもとは似ても似つかぬその異形の子どもを愛することに決める。その「異常」とは、ゴキブリの驚異的な生命力にも通じる変異的な形質にほかならないからだ。「異常」な発達を遂げたゴキブリは、原爆の投下になぞらえた害虫駆除剤が焚かれてなお強く生き延びていた。その「異常」な生命力を備えるゴキブリと「異常」が取り憑いた我が子を重ね合わせ、妻は我が子を愛する道を見出す。第一部からのテーマである、他の個体と異なるという特異点が、ここでは自分たちを抑圧する「世界の調和」を突き崩すほどのストロングポイントに転化している。
だが、それは同時に一種のディストピアも予感させる。なぜならゴキブリの生命力は、個体の生存ではなく、種=「群れ全体」の生存に向けられているからだ。ゆえに子どもに宿る「異常」な生命力も、いずれは全体性に資するものへと回収されるだろう。他方、生物としてのたくましさゆえに我が子を愛すというそぶりにも、少なからぬ危うさが漂う。そこには、生存闘争において劣るものを一律に切り捨てるような排外性が裏張りされてはいないか。虐げられた末に、異物を取り込むことによって「異常」な耐性を獲得した強者になる——「見えないとされているもの」は常に、そうした神話へと都合良くすげ替えられる可能性にもさらされている。
第三部「マングルト」では、まさしくそのような神話が、女性の身体を巡って語られる。健康セミナー然とした舞台のもと、講師が女性器に牛乳を取り込み発酵させた健康食品「マングルト」の魅力についてレクチャーし、自らこしらえたというマングルトを口にする。そうした「自産自消」の理念を体現するマングルトの創始者・淑子先生は、かつて潔癖症に苦しみ、「自分は清潔で、不潔な人たちとは違う」と思い込むことで自分を守ろうとしていた。しかしその後、考えをあらためて「(菌は)悪さをしない程度に住まわせておけばいい」と思い至る。こうしたセリフはそのまま、第一部で問われた潔癖症的な問題に対する応答になっている。しかし同時に、カンジタを患った幼き日の淑子先生が患部にヨーグルトを塗って治癒した経験を回顧する際に発した、「世界との調和」を実感したというセリフからは、彼女の主張が別の全体主義がつながっているとしていることを予期させる。また、淑子先生の映像が舞台前面に投影される様子からは、第一部での屁当弁の政見放送も想起させる。
「異常は生き物ではなく現象で、何かに取り憑かなければ見えないお化けのようなもの」「それが見えてしまうことを恐れていた」と語ったのは、第二部の妻だった。「見えないとされているもの」は容易に封殺されうる。しかしときとして、見えないがゆえに容易に神聖な対象として祭り上げられもする。「見えないとされているもの」を捉え損ね、都合の良いように書き換えようとしている点ではどちらも大差ないだろう。「見えないとされているもの」にあらためて目を向けるのは容易ではない。そしてそれが困難であればあるほど、今度は「目に見えるもの」に対して向ける潔癖の度合いが際限なく強まっていくのだ。
三部を通して、それぞれの困難が重なり合い、部分的に乗り越えられながらも、たちまち別の困難が顔を覗かせていた。「見えないとされているもの」の周りをぐるぐると周回させられたようなその経験はしかし、決して徒労であったことを意味しない。「見えないとされているもの」の多くは、屁当弁のいうように「多様でガチャガチャしている」。そうした歪な生/性を引き受けられるのか。本公演がたどった軌跡には、そうした「問い」が形を変えて散らばっていた。それらを拾い上げて見つめ直すのか、あるいはまた見えなかったことにするのか、それが「問題」だ——と終幕後、観客は二つの「問題」の周りを再び経巡ることになる。