洞窟の共鳴がひびく、うす暗がりのなか、ゆっくりと運ばれてくるのは空間の「断片」だ。おおきな岩とそれを運ぶ人間はひとつの固まりとなり、そろりそろりと集まっていびつな岩壁をかたちづくる。ウェーブライトが岩肌に走ればふしぎな文様が浮かびあがり、突如、強烈な音の開始とともに飛びだしてくるのは、岩から分化した「かけら」たちだ。
本作タイトルであり、全編で流れる「In C.」は、ミニマル・ミュージックの創始者テリー・ライリーが1964年に発表した楽曲である。53の短い打音のパターンからなるこの曲の特徴は、合奏する奏者が何回パターンをくりかえすのか、その場のかけあいで自由に変更可能な点だ。その場所、その時間の即興を織りこんだ演奏が、これまで世界各地で生みだされてきた。
演奏指示書に「とても大事なのは、演奏者がお互いに注意深く聴き合うこと[1]」とあるように、「In C.」は複数の奏者を想定している。それをダンスの生まれる場所として電子音楽でくみあげたのは、これまで数々の山田うん作品の音楽を担ってきたヲノサトルである。奏者同士の対話で生まれていく演奏「形式」ではなく、その結果移り変わっていく場の変遷のほうへフォーカスする音に導かれて、広がったり縮んだり、熱をもったり沈静したりと変化する空間=共同体のかたちが、とぎれなく描きだされていく。演奏の仕組みをそのまま――音のパターンをダンサーの動きのパターンに置き換えて――体現するのではないのだ。楽曲全体の一部でありながら自立性をもった音たちは、空間の一部に含まれながらも空間をつぎつぎ変えていくダンサーの存在へ託され、ド・ミ・ソのCコードの調和のなか、離合と交錯の動きが展開していく。
次元を変えていくかけら
時空間をつぎつぎ変えていくのはダンサーたちの動きである。無機的な明るさのなかバウンドする、はじかれた水滴のようなダンサーたち。明滅する等間隔の音にきびきびと跳ねる身体は、グリッド状の空間を生成していく。点として現れたソロの動きは、しだいに点と点のからまる戯れのデュオダンスへと移っていき、点の明滅は走る線の空間へ、一次元は二次元へと変わっていくのだ。
すると、岩たちがまたダンサーと結合する。始まりの激しい音によって分化したダンサーたちが、ふたたび岩と合成されてぞろぞろと動きはじめる。岩とダンサーの「かけら」たちが、渦を巻きながら円を描けば、中心へ向かう波の力が発生し、突如跳ね返るように四方へ飛び散る。そうかと思えば、今度は群像劇のようにあちこちで動きはじめ、気づいたときには、空間は三次元の奥行をもって生成しなおされている。
遊戯や求愛、会話から争いへと同時進行する群像は、空間だけでなく、岩の存在も変えてしまうようだ。それまで住居のように見えていた偏在する岩たちが、倒れ伏すダンサーたちの静的なシーンでは、廃墟の瓦礫のように現れなおす。
そうして、ダンスに伴われて変化する空間は、しだいに「土地」と呼びたくなる場所へと辿りつく。無機的だった空間が、風の匂う土地へと変わり、空間を舞う「かけら」たちは、土地で暮らす「群れ」へと変わっていくのだ。
その変化は段階的でありながら劇的である。まず目に飛び込むのは、鮮やかな衣装だ。それまで皮膚にちかいアースカラーだった身体は一転、カラフルな刺繍模様の入った、レッド、グリーン、イエロー、ライトブルーなどの極彩色の衣をまとって様変わりする[2]。衣装の変化とともに、ダンサーの顔にも熱気が宿り、低い重心でリズムを刻む、祝祭的な群れのダンスが展開される。それは群像でくりひろげられていた人と人同士のやりとりを越え、人以外のものへ向けられた祭りや儀式を想起させ、具体性を帯びた「土地」へと空間を変えていく。
離合のダンス
無機的な空間から、色や模様やリズムを伴った土地へといたる様相の変化は、一見、個々の展開が文化という「固まり」へ昇華されたかのようにも映る。しかし、大団円の到達では本作はおわらない。群れのダンスは祝祭の熱気からたちまち遊戯的にほどかれていき、「かけら」たちは元のいでたちへ戻り、土地はまた抽象的な空間へと還っていく。その往還は、結合から融解へのダイナミックな空間変化を、出来事としてではなく推移のかたち=ダンスとして浮かびあがらせる。ダンサー自体を分子のように見せる衣装も、岩とダンサーの離合も、ダンサー同士のひっついたりはなれたりのダンスも、空間推移のマクロなダンスを構成する「かけら」たちのダンスとして現れなおしていくのだ。
ふと立ちどまって考えれば、場所も、空間も、共同体も、区切りや境界があるようでない、きわめてあいまいな言葉である。舞台上の「かけら」たちのダンスにふれて感じるのは、いま確かに現れつづける触知可能な身体が、それらの言葉とおなじくあいまいなものへと融けていく感覚だ。分子のように離合をくりかえしながら展開されるダンスは空間のダンスへふくらみ、時と場所をおなじくする観客の身体も、そこと連動して離合する「かけら」として浮かびあがっていく。テリー・ライリーが「In C.」に意図した楽曲にたいする奏者のコミットメントは、そのような身体感覚として引き継がれるかのようだ。ときに名指したり形容したりすることで「固まり」として捉えられる、場所、空間、共同体、くわえて身体も、動きながら変化を起こしつづける「かけら」たちの複合物なのだ。
ラスト、大団円からほどかれた「かけら」たちは、さらなる分化をすすめるように、それによってあらたな離合のダンスを予兆させるかのようにして、ぶるぶるとこまかく激しくふるえつづけ、幕はとじられた。