異質なものが異質なまま共存すること。このありようは居心地がわるい。理解しあえないものと場を共にすると、言葉でねじ伏せあったり、喧嘩になるかもしれない。今ではSNSでの誹謗中傷といった問題でよく見られる光景だ。もちろん他者と理解しあうことは大切だが、それが過剰になると、暴力に変わってしまうこともある。理解しあえない他者と、理解しあえないまま、互いが存在することを受け入れるのも、今の時代においては重要なのだ。では、いかにして? Co.山田うんによる作品『In C』は、その可能性を表現しているように思われる。
この作品は、現代音楽の巨匠テリー・ライリーが作曲したミニマルミュージックの名作「In C.」にもとづいたダンスパフォーマンスである。それを現代音楽の作曲家ヲノサトルがアレンジし、録音した音源をもとにダンサー・振付師である山田うん率いるコンテンポラリーダンス・カンパニーCo.山田うんのダンサー12人が踊る。その中盤から後半にかけて展開するなかで印象的なシーンがあった。
フロアにはふたりのダンサーがいる。ひとりは踊っている。もうひとりは遺跡を模した岩のオブジェを規則的に配置する。スピーカーから流れているのは、おそらくガムランの打楽器を響かせた繊細で不思議な旋律。そこへ単音のフレーズ、小刻みにゆれる中音域のエスニックなメロディ、チェーンソーのようなギザギザした中低域のベース音が重ねられていく。そして音に導かれるようにダンサーが増えていく。しかし事態は一変する。低音の速い連弾がドラムロールのごとく下からぐわっと上がっていき、ダンサーたちの踊りも、音楽の速いテンポとボルテージの上昇に応じ、さらに細く激しくなっていくのだが、全員がフロア後方に集まり、音楽のボルテージも最高潮に達した瞬間、シンバルの一打とともにがらっと転調してしまう。これまでの旋律は突如終了し、ゆったりとした重厚な中低音のシリアスなメロディが横に広がる。だがダンサーたちは、依然として転調する前のテンポに同期した小刻みなダンスを踊っているのだ。
この光景は奇妙である。それまでリズミカルな音楽にダンスが呼応していたのにもかかわらず、転調によって両者のテンポが噛み合わなくなってしまうからだ。一方でゆったりとした遅いテンポのメロディが流れているが、他方ではダンサーたちが早いテンポで踊っているという、音と踊りの不一致。そのとき観客は、「In C.」を題材としたダンスパフォーマンスでありながら、ダンスと音楽がおのおの独立して駆動する様を目のあたりにする。それは、ずっと続いていた連動が唐突に崩壊したかのようでもある。この不一致はなにを意味しているのだろうか?
まずは本作における音楽とダンスの関係性をみていきたい。例として序盤のシーンを挙げよう。フロアではダンサーがひとりで踊っている。スピーカーからは、落ち着いたドミドが流れている。そこにリズミカルなベース音が加えられ、モンゴルの伝統音楽である「ホーミー」の男声と、ブルガリアの女声が織りなす民族音楽「ブルガリアン・ヴォイス」、ふたつの声が入り混じった神秘的な旋律が展開される。もうひとりのダンサーがフロアに登場する。ふたりは抱き合い、迫力のある重低音が鳴り響く。それからふたりは、絡み合いながらも離れ、倒れてしまう。そのとき、岩のオブジェが宙に浮くように動き出す。そしてふたたび、ふたりは絡み合う。
このシーンでは、ヲノがアレンジした「In C.」が、抽象的なダンスに意味をあたえている。ホーミーとブルガリアン・ヴォイスの神秘的な旋律により、抱き合うふたりのダンサーのありようが奇跡めいたことであるようだ。また畏怖の念を抱かせるような響きを放つ重低音は、ふたりが倒れたのち岩のオブジェが宙に浮く光景に超越的なニュアンスを、観客に感じさせるだろう。このような超越性や神秘性は、どこか民族宗教的な性格を有している。それは転調前でも同様で、ガムラン的な不思議な旋律は、ダンスに東南アジアの土着性を連想させる。パンフレットに記載されている解説文でヲノが、「音色の旅」というコンセプトで「In C.」をアレンジし、ダンサーたちは「12人の旅人」であり、自身は彼らの旅を支える「一介のツアーコンダクターにすぎない」と述べている。本作は、さまざまな国や民族のありようを描く音楽にもとづいて、ダンサーたちが旅をするように展開していく。
対してCo.山田うんは、「In C.」から取り出したある主題をダンスで表現しようとする。振り付けを担当した山田はステートメントで、「この楽曲から生み出されたダンスは、手を繋ぎにくくとも離さず、崩壊したら再生しよう、自由を支えに時に一緒に、時に孤独に、生き延びていこう、とする人間の風景です。」と述べており、そこで本作の主題が「In C.」の音楽的手法をモチーフにしていることが示唆されている。そもそもライリーによる「In C.」は、53個の断片的な旋律のフレーズが記載された楽譜をもとに、演奏者たちがフレーズを反復しつつ、40分ほどの時間をかけながら、身体性に依拠した任意の判断で、即興的に重ねたり減らしたりする曲だ。その特徴について、山田は「互いに耳を傾けて、でも干渉しすぎず、無視せず、共働で、個々の自由を貫いていく」曲と述べており、演奏者の即興的な演奏に、人間の孤独あるいは異質さを前提とした「干渉しすぎ」ないコミュニケーションのありようを読み解いている。そしてダンサーたちは演奏者の身体性を代理するように、それを踊りで再現していく。このことは先の例でも、ふたりのダンサーが絡み合い離れてしまう様から見てとれるだろう。
本作では、民族音楽的な「In C.」が流れるなか、ダンサーたちが調和と乖離をくりかえすことで、孤独さを抱えた人びとが共存するありようが、さまざまな国や民族でみられる、ありふれた人間関係として描かれていく。そして、その主題を表現するダンスと音楽の連動は、強調されたリズムによって支えられている。ヲノは打楽器やビートを多用することで、リズムを前面に押し出す。先に見たドラムロールやシンバル、リズミカルなベース音は、クラブミュージックのごとく、ダンサーの身体を駆動させるだろう。またダンサーたちも、転調前でテンポの早いメロディーに同期し小刻みに揺れていたように、リズムに導かれている。そこでは民族音楽的リズムとダンサーたちのリズムが共振しているのだ。このリズムを軸とした連動により、本作の主題がダンスにおいて身体的に表現されるのである。
さて、以上を踏まえた上で、転調のシーンにおける音楽とダンスの不一致について考えてみよう。このとき崩壊したかにみえた本作の主題を描く両者の連動は、実は崩されてなどいないのではないだろうか。たしかにそこでは音楽とダンス、作品自体を構成するふたつの異質なリズムが浮き彫りになっていた。だがその光景は、俯瞰的な観客のまなざしにおいては、自立した両者が共鳴しているようにもみえてしまう。つまりこのシーンは、作品の中で音楽とダンスをずらすと同時に、別の次元で両者の連動を露出させることで、本作のテーマを重層的に描こうとしているのではないだろうか。
転調のシーンに戻ろう。そこでの音をよく聴いてみると、ド(C音)のパルスがうっすらと打たれているのがわかる。このパルスは演奏者がテンポを把握するための基準となるだけの無意味な音の連弾である。パルスを基準にするとダンスと音楽は、テンポは違っていても噛み合ってもみえる。ところでテンポの異なるリズムが同時に進行し、まとまりのある複雑なリズムが生成していくことをポリリズムという。このシーンでは異質なリズムの音楽とダンスが、ド音のパルスを基準に、ポリリズムを奏でるように構造的に共存している。つまり本作の主題は、転調をきっかけに、作品の内容では音楽とダンスのリズムの不一致(オブジェクトレベルにおける孤独の演出)として、構造的な次元では異なる両者のポリリズム的連動(メタレベルにおける共存のあらわれ)として、同時に表現されているのである。こういった重層的な構造をもつ転調のシーンは、「孤独でありながらも他者と手を取り合いながら生きていくありよう」という本作のテーマを明確にあらわしているといえるだろう。
異なるリズムの音と踊りが絡み合う。それが生みだす「異質なものたちのポリリズム」。これは理解しあえない孤独を抱えた者たちが、理解しあえなくても、互いが存在することを受け入れるありようを示している。かれらには命があり、わたしにも命がある。そして、それぞれに命が生み出すリズムがある。異なる脈拍(テンポ)で鼓動する生命のリズムたちを、ポリリズムのように受け止めること。このような共生の可能性を本作は体現している。