トレモロ『コリオレーナス』が、疾走感あふれる上演で観客を魅了した。シェイクスピア劇の中で『ハムレット』に次ぐ長大なテクストを、演出の早坂彩が約80%に刈り込み、畳みかけるように展開した。
正方形の舞台が紀元前5世紀の共和制ローマの広場を表し、奥に設けられた背丈ほどの上舞台が広場の演壇となるほか、他の様々な場面として機能する。登退場を二つの舞台に振り分けることで、素早い場面転換を実現した。舞台の床はイタリアの空を映したようなスカイブルー。芝居の軽快なテンポにふさわしい。

撮影:井上嘉和
――ローマの勇将ケイアス・マーシャスは、山岳の民ヴォルサイを退けた武功により「コリオレーナス」の称号を得て、最高位の執政官に推される。市民らも一度は承認するが、市民を見下すマーシャスの傲慢さを護民官が非難すると、扇動された民衆は彼をローマから追放してしまう。憤怒に駆られたマーシャスは仇敵ヴォルサイの将軍オーフィディアスと手を組み、ローマを陥落寸前まで追い詰める。しかし、敬愛する母ヴォラムニアの嘆願に折れて和議を結ぶ。そのことで裏切り者とされ、オーフィディアスに殺害される。
『プルターク英雄伝』に基づくこの筋立てを劇にするにあたり、シェイクスピアは大きく三つの要素を肉付けした。
1.戦闘場面の舞台化(入り乱れるローマ軍とヴォルサイ軍、マーシャスの超人的奮戦)
2.絶対的存在としての母親の前景化(ローマ人の理想であるvirtus=戦場での雄々しさを体現するよう息子を育て上げた母と、母に逆らえないマーシャス)
3.市民の政治関与の主題化(当時の英国における貴族と市民の対立を反映させ、民衆が政治的決定に関わることの是非を問題化)
演出は第一の戦闘場面をすべて省略した。第二の母子関係についても大幅にカットした。嘆願の場は残ったが、そこまでの母子のやりとりが十分描かれなかったこともあり、それほど熱を帯びた場面にはならなかった。合戦シーンの興奮、鬼神のごとき武将が情に流される人間味、といった観客の感情を揺さぶる要素が意識的に削ぎ落とされた。
一方で、第三の「市民の政治関与」に関する部分はほぼ残された。つまり、焦点を「政治」に絞り込んだのである。観客に知的な省察を迫る演出は、ブレヒトの叙事詩演劇に近いアプローチと言える。
冒頭、穀物不足に不満を募らせた民衆が広場に集まってくる。シェイクスピア劇では職人はよく商売道具を手に登場するが、本公演の市民はアイロン台、フライパン、ビニール傘等を持っている。小道具が劇世界を現代に引き寄せる役割をする。
13人の俳優で30役以上、加えて市民の役までこなした。衣装を替える時間的余裕はなく、口調や所作で複数の役を巧みに演じ分けた。ただ、役によって靴は履き替えた。演出は市民役にカラフルなスニーカー、元老議員役に黒の革靴、武人役に黒のブーツを履かせた。靴を身分や属性を示す記号にしたのだ。
執政官に就任するにあたり、マーシャス(丸山港都)は市民の承認を乞う「儀式」を迫られる。粗末な衣をまとい、市民に戦場での傷を見せねばならない。彼にとって傷は武人の誇り。それを人気取りに利用する虚飾を嫌い、強く抵抗する。原作どおりなら、傷を負って血まみれで城門に突入するマーシャスを観客は目の当たりにするが、この公演では戦闘シーンがない。〈傷=命を賭した武勲〉の象徴性が薄らいだのは仕方がない。
護民官に焚きつけられて市民らが暴動を起こす場面では、現代のデモよろしくハンドスピーカーを手に石を投げる演出がされた。注目すべきは、ここでのマーシャスの造形である。原作のマーシャスは高潔だが直情径行、激しい気性の持ち主だが、丸山マーシャスはむしろシニカルだ。それに、策謀を巡らす護民官の描写もあっさりしている。時代劇の大きな熱量が、等身大の現代劇のトーンに意図的に変換されたのである。市民を罵倒するマーシャスの台詞を大幅に削ったのも同様の理由だろう。

撮影:井上嘉和
ちなみに、この暴動の場面は直近の英国社会を反映したものでもあった。1607年、飢饉による食糧難からミッドランド(作家の出身地方)で暴動が勃発した。暴徒は食糧の緊急支給や囲い込みの撤廃を求めたが、首謀者の処刑によって鎮圧された。
当時は検閲制度があり、反体制的と取られかねない内容を書くことは憚られた。シェイクスピアは舞台を古代ローマに移し、市民を軽率で扇動されやすく、指導者を選ぶ能力を欠いた存在として描いた。シェイクスピアは、民衆とも権力者とも距離を置き、市民の政治関与を諷刺的に扱う傾向がある(『ヘンリー六世』のジャック・ケイドの乱や『ジュリアス・シーザー』における民衆の変心など)。観客の大半を占める市民への共感はあっても、彼は国王を後ろ盾とする劇団の座付き作家だった。
米国の研究者スティーヴン・グリーンブラットは新歴史主義の観点から、ルネサンス劇の特徴を次のように分析した――権力を〈転覆〉する試みは民衆の不満を一時的に解放するが、それが失敗して既存秩序の正当性が確認されると、転覆のエネルギーは体制に〈包摂〉され、支配を強化する。
本公演でも、〈転覆〉する試みの危うさが露呈される。広場で気勢を上げていた市民たちは、使者がヴォルサイ軍の挙兵を報じるや、大きく動揺する。マーシャスが軍への志願を求めると、先ほどまでの勇ましさはどこへやら、こそこそと逃げ出す。自ら危険をおかす覚悟はないのだ。護民官たち(高岡諒一、大間知賢哉)もまた、移り気な世論の動向を恐れるばかりで、大局的な判断ができない。マーシャス追放後に彼の率いる敵軍が迫って初めて、慌てふためくのである。

撮影:井上嘉和
この上演は現代劇のスタイルで市民の政治関与に焦点をあて、スピーディーな展開に重点を置いて、志の高い秀作となった。ただしその分、緊迫した場面や感動的な見どころを犠牲にした面もある。
例えば、マーシャスがヴォルサイ領へ赴き、不倶戴天の敵オーフィディアス(鷹野梨恵子)に復讐の共闘を申し出る場面。マーシャスは40行近い長台詞を語るが、オーフィディアスの台詞はごく少ない。簡単に願いを受け入れた印象を受けた。驚きや猜疑、打算、武人同士の敬意といった内面の動きを、表情や声に滲ませたかった。
最大のクライマックスであるはずの母ヴォラムニア(天明留理子)による「嘆願の場」は、時代がかった大芝居になることを避けてさらりと演じられた。例えば、ヴォラムニアの「ローマが火の海となるときまで、私は口をつぐみます。そのときがきたら少しは言いたいこともある」は見栄を切るような名台詞である。しかし演出は名台詞を粒立てる大時代な演技を排し、現代劇のスタイルを守った。母子の情に感動して、観客の目が「政治」から逸れるのを避けたのかもしれない。
ないものねだりを一つ言うなら、観客を巻き込む工夫があってもよかった。例えばピーター・ホール演出、イアン・マッケラン主演『コリオレーナス』(英国ナショナルシアター、1984年)では、毎回観客を30人ほど舞台に上げて群衆を演じさせた。そこまでせずとも、市民役が観客を仲間の市民に見立てて接したり、マーシャスが観客を群衆とみなして向き合ったりすれば、観客は政治の問題をより「自分事」として捉えられただろう。
最終場、マーシャスがあっけなく殺害され、急展開で劇は終わる。結末に向かって、シェイクスピアのペンはあまりにも性急である。たしかに、主人公が死ねば悲劇はそこで幕切れというのが当時の約束事だが、ローマ市民の反応も描かぬまま終わるのはいかがなものか。
尤も、それでこの上演が提示した「市民の政治関与」の問いが損なわれたわけではない。劇中でマーシャスは、「ギリシアでは民衆がもっと大きな権力をもっていた、(中略)それが不服従を育て、ついには国を滅ぼすもととなったのだ」と言い放つ。私たちはむろんこれを受け入れることはできない。では、民意によって国を正しく運営するにはどうすればよいのか。この公演は、その問いを真っ向から観客に投げかけている。
グリーンブラットは著書『暴君』で、トランプ大統領への批判を胸にシェイクスピア劇を論じ、『コリオレーナス』を民衆が暴君の出現を食い止めたケースと位置づけた。しかし、マーシャスが暴君になったかどうかは分からない。彼は自らの価値観に愚直なまでに忠実で、嘘がつけず、およそ政治に不向きであるにすぎない。
むしろ問題は、virtus(戦場での勇敢さ)を至上の徳とするローマの価値観にあるのではないか。virtusは「vir(男)であること」が原義で、「戦争で勇敢に戦うことこそ男らしい美徳」とする規範に基づいている(英語のvirtueはこの語に由来する)。
外敵から国を守る勇者は英雄かもしれないが、その人物が政治の指導者として適しているとは限らない。現代においても、勇敢な言動で賞賛される人が一国のリーダーの資質を持つかは別問題である。多くの人が望むのは、マーシャスの高潔さを持ちながら、大局を見て適切で柔軟な対応ができる人だろう。リーダーに望ましい人とリーダーにすべきでない人を見極める眼が、私たちにはあるだろうか?そもそも私たちは、自分の国の政治に主体的に向き合っているだろうか?
トレモロの『コリオレーナス』は、速度のある展開の中で現代社会の政治的課題を浮かび上がらせ、自らの政治への関わりを省みる貴重な機会を、観た者にもたらした。