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"KIPPU" トレモロ『コリオレーナス』公演評

そぎ落とした政治劇――『コリオレーナス』

文:北村紗衣
2026.4.10 UP

 ウィリアム・シェイクスピアの『コリオレーナス』は、古代ローマを舞台にしたローマ劇と呼ばれるジャンルの芝居である。勇敢で優秀な軍人だが傲慢なコリオレーナスがローマ市民に疎まれて追放され、敵であるヴォルサイ人たちと組んでローマに攻め入る。ところがコリオレーナスは母ヴォラムニアの説得でローマ侵攻を取りやめにする。ヴォルサイの将軍でコリオレーナスのライバルであるオーフィディアスはこれを問題視し、ヴォルサイ軍の恨みを買ってしまったコリオレーナスは殺される…という悲劇である。
 主人公であるコリオレーナスが極めて人好きのしない人物である上、ローマ市民たちも護民官などの意向に流されやすいいわゆる「衆愚」として描かれており、痛烈な政治諷刺を含んでいる。さらに現代人にはわかりにくい点も多いためあまり人気がなく、頻繁に上演される演目ではない。シェイクスピアの生前の上演に関する記録はほとんど残っておらず、あまり人気がなかったのではないかとも思われる。現在でもそれほど上演回数が多い演目とは言えないが、近年は比較的注目すべき上演や翻案がある。2011年にはレイフ・ファインズ監督・主演で映画化されているが、日本では『英雄の証明』という全くシェイクスピア劇とわからないタイトルで公開されてしまった。2014年にはジョシー・ローク演出、トム・ヒドルストン主演のロンドンで行われた公演がナショナル・シアター・ライブの一環として日本でも映画館で上映された。さらに2008年から刊行されたスーザン・コリンズの小説シリーズ『ハンガー・ゲーム』及びその映画化作にはコリオレイナス・スノー大統領という人物が登場しており、明らかに『コリオレーナス』をはじめとするシェイクスピアのローマ劇からの影響がある。21世紀の不穏な政情に響き合うような内容を扱った芝居だとは言えるであろう。
 ロームシアター京都で上演された早坂彩演出、トレモロによる『コリオレーナス』は、視覚的な点でも台本の点でも余計なものをそぎ落とした上演である。ローマ劇を上演する場合、古代ローマ風の白い豪華な建物を模したセットを作ることもあれば、現代政治を思わせる議事堂などを設置したりするような公演もあるが、本プロダクションのセットは比較的簡素である。長方形の箱で作られた簡単な台が中央にあり、両側に階段がついていて、ここが演壇のような機能を果たしている。その奥にさらに高い2階があり、この部分も使われる。さらにいくつか長方形の箱が舞台にあり、これは登場人物が運んで組み替え、台のように使用したり、立てて柱のように見立てたりすることもできる。登場人物については、貴族たちは一応布を巻き付けた衣装を着ており、少しトーガを連想させるところはあるが、現代的に見えるところもある。

撮影:井上嘉和

 トレモロの『コリオレーナス』は、ローマ市民たちがフライパンなどを武器がわりに持ち寄って暴動を起こそうとするところから始まる。あまり武器にならなそうなものを持って意気揚々と集まったものの、人の意見に流されやすい市民たちは確固たる意志を持って抵抗運動をすることができない。この市民たちの様子は面白おかしいが、現代日本の同調圧力に弱い民衆文化を考えると、あまりにも符合しすぎていて笑えないところもある。『コリオレーナス』は権力にも民衆にも非常に厳しい目を向けている芝居であり、一般市民を愚かで政治に携わる能力に欠けた存在として描いているところが反民主主義的であると考えられることもあるが、ニセ情報にまみれた悪しきポピュリズムが猖獗を極めている現代社会においてはむしろ時代の姿にピッタリ合っていると言えるかもしれない。
 本プロダクションの特徴として、原作戯曲に登場する人物がカットされているというところがある。原作にはコリオレーナスの母ヴォラムニアと妻ヴァージリアの友人であるローマの高貴な女性ヴァレーリアが登場し、なぜか最後の嘆願の場面までついてくるのだが、この女性はあまり大きい役柄ではなく、いったい何をする人物で、なぜ嘆願にまでついてくるのかはあまり劇中でははっきりしない。シェイクスピアが材源として使用したプルタークの『英雄伝』ではもう少し大きい役割で経緯もわかるのだが、戯曲ではこのあたりが省かれているため、家族が必死に嘆願する親密な場にどうして部外者の女性がいるのか不明である。ヴァレーリアは現代の観客にはよくわからない登場人物であるため、カットすることで話の流れがわかりやすくなっており、これは理解できる省略だ。さらにコリオレーナスとヴァージリアの息子である幼いマーシャスはかわいらしい子役を登場させることもできるが、本プロダクションでは台詞のない赤ん坊になっており、顔もわからない。

撮影:井上嘉和

 こうしてさまざまなものを削ぎ落としているために女性同士の会話が少なくなり、ヴァージリアの存在感ももとの戯曲より減っている。この結果として、原作には存在した家庭的かつ「女性的」な領域と公的かつ「男性的」な領域の対比があまりなくなっている。これは演劇的な効果としては物足りないところもあると言えるが、一方でほとんど公的な地位を持った政治家のように振る舞うヴォラムニアが目立っていることや、オーフィディアス役を女優である鷹野梨恵子が演じていることもあり、ジェンダーによる地位の格差よりは階級による振る舞いの違いを強調している演出であると言える。

撮影:井上嘉和

 本作において、ローマの市民たちは付和雷同しやすく自分の意志がない一方、上流階級に属する人々は自分の特権を当たり前のもののように思い、奢り高ぶっている。コリオレーナスはあまりにもプライドが高く、市民を蔑視しているがゆえに失墜の道をたどる。元老院もあまり有能に見えない。コリオレーナスを助けるメニーニアスはもっと同情的に演出することもできたであろうが、このプロダクションでは人を操るのが好きな老獪な政治家として造形されており、親友ぶって交渉のためコリオレーナスのもとに出向くもののあっけなく拒否されるくだりは滑稽ですらある。厳格で勇猛であるはずのコリオレーナスが母ヴォラムニアの嘆願に屈したことは公的責任よりも私的な利益を優先する行為であり、どうしても耐えられずに溢れる愛情や親孝行の心に屈したことからくる悲劇というよりは、全てのものごとがなれ合いで動き、公正な手続きを経ないで決まってしまうローマの弱体化した政治体制を象徴する行いであるように見える。この戯曲はオーフィディアスとコリオレーナスの間にいわゆるブロマンス的な友情が介在するように見えるような演出も可能だが、本作はそうしたアプローチをとらず、オーフィディアスは始終冷静で計算のできる政治家であり、あまりコリオレーナスに対する友愛はなく、最後は冷たくライバルを切り捨てておきながら、死後は世間体を考えて敬意を払う。
 全体として、この『コリオレーナス』はシンプルであるが、非常に手厳しく諷刺的な演出に貫かれた冷たい政治劇である。面白おかしいところもあるが決して気持ちの良い笑いではなく、現実の政治で似たような馬鹿げたことが起こっていることを考えると、見ている観客の笑いも多少引きつってしまう。2026年の演出としては非常に現代的であり、世相にあっていると言えるであろう。

  • 北村紗衣 Sae Kitamura

    武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア、舞台芸術史、フェミニスト批評。著書に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』 (白水社、2018)、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房、2019)、『批評の教室』(ちくま書房、2021)、『学校では教えてくれないシェイクスピア』(朝日出版社、2025)、『素面のダブリン市民』(書肆侃侃房、2026)など。

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