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#公演評#演劇#ロームシアター京都×京都芸術センター U35創造支援プログラム“KIPPU”#2023年度

PANCETTA『PANCETTA LAB 2024 IN KYOTO』

滞在の痕跡として舞台

文:岩淵拓郎(編集者/一般批評学会)
2024.5.15 UP

撮影:中谷利明

 

 

古いものたちを
これまた古いふるいにかけてみる
私は古いふるいを手に持って
勇気をふるってふるわせる―

 

 PANCETTA(パンチェッタ)、初めての京都公演「PANCETTA LAB 2024 IN KYOTO」上演初日は、この台詞から始まった。 

 一宮周平が主宰する演劇ユニット。一宮以外特定の役者を置かず、作品ごとに面子をそろえて創作と上演を行うスタイルを取っている。作風は、公式の謳い文句によれば「1つのキーワードから派生する様々なシーンをオムニバス形式で展開する新感覚な喜劇」とのこと。本作では、一宮と出演者の5人が約1ヶ月間にわたって京都に滞在し、実際の体験をもとにテーマもキーワードもないところから創作が行われた。

 

■滞在の痕跡としての舞台

 とは言え、冒頭の台詞が示すとおり、本作を貫く事実上のキーワードは「古い」だと考えていいだろう。種明かしがあった訳ではないが、少なくとも筆者はそう受け取った。わざわざ京都まで来て「古い」もないだろうとは思うが、それは一旦おいておく。とにかく彼らは、1ヶ月の京都滞在の中からさまざまな「古い」を拾い上げ、もしくは言葉遊びや連想ゲームによって拡張し、それぞれアイデアと演技を持ち寄り、ときには偶然の出会いや発見とそれによって引き起こされた想起なども加味し、その結果立ち上がった断片的なイメージが数珠つなぎで演じられた。例えば、“碁盤の目”の通りの名前を当てるクイズ、身体で受け継がれる子どもたちの遊び、厳格かつ適当に伝えられる謎の家訓、2年ごしに届けられる宅配ピザ、偉業を忘れられた偉人の像、いつの間にか使わなくなった鉛筆を巡る物語、祖母とのささやかで幸せな想い出……。

 正直、どのシーンにもそれほど深い意味が込められているようには感じないし、全体を通して浮かび上がる物語やメッセージなども見つけられない。一方、それら断片は「古い」という共通項によって、きわめて表層的な京都っぽさと容易に結びつく。「ねぇ、これってめっちゃ古くない? 京都って感じ」 興味深いのは、その薄っぺらさこそが世界屈指の観光都市におけるもう一つの、つまり観光客としてのリアリティとして感じられる点だ。いわゆる滞在制作(アーティスト・イン・レジデンス)は、独自の視点から地域を捉え直し作品化するものから、いわゆる缶詰状態で制作に没頭するものまで様々だ。しかし彼らは、ただこの街を訪れる多くの観光客と同じく滞在することを目的として、そこで経験したり感じたり考えたりしたことをなるべくそのままの状態で作品化することを試みた。そのような視座に立つと、舞台上のとりとめもないシーンの断片は、まるで旅先で撮られた写真の束のように特別な意味を持ち、滞在の具体的な痕跡として刻まれているようにさえ思える。と言うか、むしろ本作自体が滞在の痕跡そのものといった印象だ。実際、筆者は上演中、目の前で展開される役者たちの演技を眺めながら、その向こう側にあった彼らの滞在そのものについて何度も想像した。

撮影:中谷利明

■演劇の所在を逆転させる試み

 説明が前後するが、今回の公演は、彼らが2021年から取り組んでいる「PANCETTA LAB」という、「出会いと研究と実験を目的」とした企画として位置づけられている。内容は毎回異なるが、制作プロセスが積極的に公開される点が共通する特徴だ。

 本公演においても、クリエイションの大部分は公開稽古として一般に無料で公開され、一部はYouTubeでも配信された。上演においては、劇場外のホワイエで、出演者の制作メモや、滞在中に訪れた場所をマッピングした地図などを展示。上演前には一宮から「公開稽古見てない人。そういう企画じゃないんですよ!」と釘が刺され、終演後には舞台上で終わったばかりの上演の振り返りまで行われるという、徹底ぶりだ。

 出会いと研究と実験が目的。ラボ企画は、本来ならば上演の副産物として生まれるものに焦点を当てることで、演劇の所在を逆転させる試みと言える。企画が立ち上がった時期を考えると、コロナ禍で公演の実施が困難な状況の中、彼らが「演劇は上演にしかないのか?」という問題と直面したことは想像するに容易い。そして本公演についても、やはりその所在は滞在の方にあり、舞台はその痕跡にすぎないという理解も、あながち的外れではないと感じる。とは言え、筆者も「そういう企画じゃないんですよ!」と言われたうちの1人なのだが……。

 

■仕組まれた巧妙な凡庸さ

 あくまでも筆者の解釈を元にして進めれば、滞在の痕跡としての本作は、滞在そのものを観客に想像させるという意味でよく機能していたし、つまりは演劇の所在を逆転させる試みも十分に成功していたと感じる。観劇体験そのものは、それぞれに個性が立った役者陣の安定感ある演技と、同じ舞台上に配された2人の音楽家による時間をスムーズに進める生演奏によって、比較的あっさりとした印象。しかし実際にはなかなかに捻れたことを軽やかにやってのけていて、なにより「古い」に象徴される凡庸さこそが彼らの滞在を生々しく表現していることに驚かされる。そしてそんなどこにでもある、とりわけ京都には掃いて捨てるほどある観光の日々を過ごした彼らが、ちょっとうらやましい。

撮影:中谷利明

  • 岩淵拓郎 Takuro Iwabuchi

     編集者/一般批評学会。 1973年兵庫県生まれ。美術家として活動した後、編集者へ。現在は主に文化芸術に関する書籍・冊子の編集、地域の文化プロジェクトのプロデュースなど。2022年『なんだこれ?!のつくりかた』上梓、2023年重版。好きな食べ物は餃子。食べられない食べ物は山椒の粒。

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