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オル太『ニッポン・イデオロギー』公演評

沈黙をなぞる遊び

文:筒井潤
2024.1.5 UP

YPAM2023、YPAMディレクションでのオル太『ニッポン・イデオロギー』BankART Station(神奈川)

 むずかしくはない。道を歩いていて警察官を目にしたとき、何も悪いことをしていないのに「あ、」と反応する。これがイデオロギーだ。誰しも身に覚えがあるだろう。オル太は日常の風景やマスメディア、SNS、歴史的事実、そして個人的な経験からもそのようなイデオロギーを丁寧に拾い集め、長時間にわたってそれらと戯れる行為を『ニッポン・イデオロギー』として発表した。
 オル太はいわゆる劇団ではない。まったく毛色は異なるが、関西に暮らしてきたわたしは維新派やダムタイプを思い浮かべないわけにはいかない。いずれもいわゆる演劇として成立させることは念頭にないからこそ、異質にして重要なドラマトゥルギーを生み出してきた。今回のオル太もそうだ。
 小道具や衣装は、いわゆるあり物と作り込まれた作品と呼ぶに相応しい物が混在する。アートにとっての技術は日常生活においては非技術であり、逆もまた然りなのだが、それらを雑然と並べてその境界を無効にした。極めて凝っている照明も機材は最新のものだけでなく日常的に目にするものも含まれているし、音楽も聴いたことがあると思っていたら次第にそうでもない気もしてきて不安な気持ちになってくる。出演者の演技は演劇の俳優としてとらえると拙く感じる観客もいるかもしれないが、ひとりの出演者がいくつものキャラクターを舞台の袖にはけずに演じ分ける今作においては、当人になり切り、生き切ることを是とする西洋近代演劇の演技法は足手纏いとなる。そしてそもそも地に足が着いていない。比喩ではなく実際にそうなのだ。移動の際もよく浮遊している。いずれも考え抜かれたきめ細やかな配慮があり、スカスカのように見えてまったく隙がない。オル太は、既存の商業的価値に見合った稼げる技術でもなければ、ニッチな修辞に耽溺し酔い痴れる特異な教養の持ち主の嗜みでもない、真摯で愚直、そしてユーモアを忘れない演出で、通俗性を貫通した先にある瀕死の市民社会の真の姿をとらえる。それは以下のようなものである。

 奇妙な自由の感覚と耐え難いほどの拘束の感覚の共存のなかで、生命と死とはその希薄さを共有し合いつつあるようだ。民族紛争による大量殺戮、(国家によるものもふくむ)テロリズムによる大量殺人、インナーシティに廃棄され暴力にすがる人びと、そして他方で、厳重な私的セキュリティ・テクノロジーに防御されたディズニーランド化し要塞化する郊外の風景はこの生と死の折り重なりの平面上に並列している。
(酒井隆史『完全版 自由論––––現在性の系譜学』より)

 『ニッポン・イデオロギー』の観客は静かである。劇場の優等生としてマナーを守っているからではない。正確に言えば静まり返っているのだ。開演してまもなく気づかされる異質さと向き合うために静かにして目を凝らし耳をすます。しかししばらくするとその態度はいつのまにか受け身の沈黙にスライドさせられる。サイレントマジョリティの観客は自分が静かにしている原因を目の前で延々と明示されるので、自覚させられたうえでの“再”沈黙をする。世の不条理に対して決して黙ってはいないと自認する観客も、改めて思い知らされるイデオロギーの深淵に言葉を失う。しかも、技術と非技術の境界を無効としたパフォーマンスによって誰もが好き勝手に言えてしまえる舞台芸術の技術論(「うまい/ヘタ」)はあらかじめ封じ込められている。終演した途端に交わされる観客の会話は天気のこと、服装、空腹、お互いの近況、帰りのアクセスなどなど。平穏な日常をかき集め、いつもの沈黙を、あるいはいつもの声をあわてて取り戻そうとする。感想は聞こえない。わたしはこのレビューをYPAM2023のYPAMディレクションとして12月12日火曜日から3日間、2章ずつ上演されたものを鑑賞したあとに書いている。前後の週末にも上演されているが、SNSでの反応も少ない。
 上演中は観客を黙らせ、終わった直後の観客はその内容についてほとんど語らない。多くの日本人がそのイデオロギーについて語らないのと同じように。むずかしいからではない。ひとと考えが異なった場合に根深い対立となる蓋然性が高いのを知っているからである。ときにアーティストがイデオロギーに触れる創作に対してわざわざ「関心がない」と口にしているのを見聞きするが、それもまたイデオロギーの所産である。改めて言う。イデオロギーとは警察官を目にしたときの「あ、」だ。誰しも身に覚えがある。むずかしくはない。

 昨今、多くの一般的なアート鑑賞者は、社会に貢献できる有能で善良な人材として努める/勤めるために脳内にインストールしたセラピー言語を、時にはやさしく、時には刺激強めでなぞってくれる娯楽表現を好む傾向があるようだ。哲学者の戸坂潤は盧溝橋事件があった1937年7月に発表した『娯楽論 ––––民衆と娯楽・その積極性と社会性・––––』でこのように述べている。

 民衆勤労生活の不幸を想定することによって、且つこの想定を普遍な公理とすることによって、初めて慰安という恵善的観念が社会的に生じて来るのであるが、之を以って他ならぬ娯楽だとすることは、結局民衆の不幸に対する弁解と補償として、娯楽を利用することになるのであって、民衆に対する社会的支配の道具の一つを娯楽に発見するというやり方に他ならぬ。

 オル太はその「やり方」に抗い、観客の沈黙をなぞる。その手つきは丁寧で粘り強く、時間をかければかけるほど緊張が増す。沈黙を糾弾したいわけではない。だからと言ってそのままでいいよとやさしく慰めたりもしない。沈黙をなぞることに徹すればそのいずれにもならないのは明らかである。オル太が観客に向ける眼差しには冷徹さとともに厚い信頼が宿っている。誰も言い逃れができない現代社会の希薄さに加担してきた沈黙を確かめ、それをほぐし、それで遊ぶのだ。

 『ニッポン・イデオロギー』は、慰安的娯楽でも、反体制のフリをした新自由主義エンターテイメントでもない。逃避せず、徹底的に日本のイデオロギーと向き合い、明日に希望を抱くか絶望するかの世論調査的二者択一を拒絶しながら、(こんな)今日を誠実に、そして(それでも)楽しく過ごすためのわずかに残された遊戯的手段の実践である。

  • 筒井 潤 Jun Tsutsui

    演出家、劇作家。公演芸術集団dracom(ドラカン)リーダー。2007年、京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomの活動として、サウンド・ライブ・トーキョー2014、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(2017、19年、デュッセルドルフ)、東京芸術祭2019ワールドコンペティションなどに参加。dracom以外の活動として、DANCE BOX主催『新長田のダンス事情』(TPAM2014参加)、『滲むライフ』(KOBE-Asia Contemporary Dance Festival #4 参加)で演出、ルリー・シャバラ『ラウン・ジャガッ:極彩色に連なる声』(KYOTO EXPERIMENT 2021)では空間演出を担当。他にも山下残振付作品、マレビトの会、維新派、akakilike、ホー・ツーニェン、荒木優光などの公演や作品に参加。

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