ついさっきまでその存在が自明であった人や物が見る間に変化・変容するというのは不穏でいかがわしいことである。しかし、変化・変容の持つ不穏さは新たな価値体系や文化の創出へと繋がるものだ。そして変化・変容の過程においては、それぞれ異なる文化・風習の持っている特色や隠匿しておきたいような側面も赤裸々に暴きだされてしまう。
Noismは、りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館を拠点に活動する、日本初の公共劇場専属舞踊団であり、特定の主義を持たない「No-ism=無主義」を掲げ、歴史上蓄積されてきた様々な身体表現の継承を実践している団体である。そして、太鼓芸能集団 鼓童は同じく新潟を拠点に活動する、太鼓を中心とした伝統的な音楽芸能に無限の可能性を見いだし、現代への再創造を試みる集団である。両集団による初共演となる今公演は『鬼』をひとつの主題に置き創作された2本の新作を、新潟・埼玉・京都・愛知・山形の5都市で上演するというものであった。
『お菊の結婚』、『鬼』の両作ともに「鬼」を共通の主題としているが、その主題を通しておこなわれているのは、「鬼」という暴力的に変化を促してくる存在をトリガーとした「暴露」である。いったい何を暴露し、それによって何が表現されているのか。ここでは特に私にとって印象的だった『鬼』に焦点を絞って考えてみたいと思う。
『鬼』では、修験者でありながら鉱山労働者の集団でもある役行者一行と、遊女たちを引き連れた清音尼一行の欲望のぶつかり合いのなかで鬼が現れてくる。役行者伝説は時代によって形を変えていくため、ここで描かれている役行者及び修験道の行者兼炭鉱夫たちを、どの時代の文献と照らし合わせるべきなのか判断するのは私の手に余るが、「孔雀の呪法で鬼神を使役した」という伝承が残されている役行者はこの物語のなかで鬼の侵入を禁じようとはしているが使役を試みているようには見えない。これは仏教伝来以前に道教の修行者として『続日本紀』に描かれた役行者像をモデルにしているのだろうか[1]。
一方の清音尼は鉱山労働者たちが通った遊郭を、佐渡に初めて開いた人物とされる[2]。役行者とは時代を異にする人物なのだが、修験道の行者が炭鉱夫としての一面も持っていたとされる歴史的な言及に加えて、佐渡で炭鉱夫相手に遊郭を開いていたという清音尼にまつわる伝承が、「鬼」を中心的なテーマに据えてひとつの物語に収斂されていた。
物語自体はとてもシンプルであった。修験者たちを誘惑する遊女たちとそれを禁ずるように結界を張って対抗しようとする修験者たちの攻防、そしてそのまぐわいの末に山に眠る黄金にたどり着くというものだ。ただ、シンプルな筋でありながら、まさに物語の肝である修験者と遊女たちとの攻防は緩急ある太鼓のリズムと精妙な演者たちの絡み合いによって手に汗握る緊張感を湛えていた。とくに、顔を手で覆って、役行者を囲むように立ち並ぶ5人の行者たちをたちどころに屈服させてしまう清音尼(鬼)の場面は背筋が凍るようだった。この演目の緊張感は行者たちの頑なさ(不変性)と遊女たちの妖艶さ(可変性)によって醸し出されていたと言えるだろう。
物語の後半、行者たちと鬼に化した遊女たちは攻防の末に黄金の鉱脈にたどり着く。そしてこの黄金の暴露(バカバカしいほど舞台後方の壁いっぱいに広がる金ピカのベールと、舞台前方を横断するように横たわる黄金の川として表現される)によって、対立していた鬼と行者たちは黄金のベールの向こうへと消えていく。
ここでは黄金のベールの登場によって、人間の欲望が暴露されている。人間から鬼へと化した遊女たちと鬼に魅入られた役行者の同行者たちにとっての黄金の価値とは、単純に心も踊るほどの溢れる富である。しかし修験道の行者、とくに役行者と、鬼と化した遊女たちの持つ黄金の価値と欲望のあり方は異なるように思われる。
『続日本紀』の記述に従う限りでは役行者はもともと道教の教えをもとに神仙となるために入山した行者である。道教において人間が神仙へと「化仙」するには行気・内丹、服餌・外丹の二種類の方法があり、服餌・外丹では仙薬の口にする事で化仙を為そうとするのであり、仙薬のなかでも最もランクの高いのが「金液」と呼ばれる黄金をもとにつくられるものなのだ[3]。もし、役行者にとっての黄金が化仙のための仙薬としての価値を持っていたとするならば、黄金のベールが暴露したのは同じ対象への異なる欲望の衝突であり、それらが(実際に肉体を絡ませながら)黄金のベールの向こうへ消えていった最後の場面は、異なる価値観や欲望が混交しながらも昇華されていく様であり、この構造はフランスから来た海兵と日本の遊郭のあいだで価値体系の相違からどんちゃん騒ぎが起こる『お菊の結婚』にも通底しているものだと言える。
これらの作品はNoismと鼓童という異色の組み合わせによって、価値体系の異なる異文化との衝突と混交を経て成熟していった日本の文化風習の変化・変容の過程を分析的に、かつダイナミックに暴きだしたと言えるのではないだろうか。