タイの伝統芸能「コーン」になじみのある日本の観客は、残念ながら現時点ではおそらく稀だろう。現代のパフォーミングアーツに関心があっても、コーンについての接点となると、かろうじて、ピチェ・クランチェンという舞踊家を通して辛うじて聞いたことがある、という人がほとんどではないか(私自身もそういう観客のひとりである)。ただ、その彼が、徹底的にコーンの可能性を見極め、その果てにコンテンポラリーダンスの新たな創造性を見出そうと取り組んでいることは、ずいぶん前から聞いていた気がする。『No.60』という、あまりにシンプルなタイトルをもつ彼の作品は、約20年にわたる彼のそうした探究の、ひとつの集大成というべき、まぎれもない傑作である。
「コーン」は、「男性」、「女性」、「猿」、「悪魔」という四つの様式=類型を通じて、神話的世界を描き出そうとする舞踊劇である。「私(=ピチェ)は2014年に、タイ古典舞踊「コーン」において「悪魔」に分類されている登場人物たちについての知識を解体する、というコンセプトで『I am a demon』という作品を創りました。(中略)この作品に、物語や衣装といった「コーンの典型的な要素」はありません。この作品から私が知り得た重要なことは、悪魔的な登場人物たちの身体構造には、三角形、長方形、円という三つの形状があるということです」[*1]。こうした彼の記述から、私たちが否応なしに思い出すのは、正二十面体をモデルに運動を記述しようとしたルドルフ・ラバンや、そうした体系化の着想をバレエの脱構築に応用し、ダンサーが振付家なしでも動きを生成することができるシステムにまとめたウィリアム・フォーサイスの試みである。そして、今回上演された『No.60』の冒頭は、ほぼ「何もない空間」に、シンプルなコスチュームだけを身に着けた二人のダンサー(クランチェン自身とコーンカーン・ルーンサワーン)が登場し、舞台奥に投影される図解(ダイアグラム)とその意味を、短い実演の連続によって紐解いていく、一種のレクチャー/ワークショップのような形で始まっていた。私たちは、いわば実演付の「解説」を通じて、いわば〈コーンの眼でみた「世界」の見方〉に、少しずつ導かれていくことになる。
最初は、そっけないレクチャー・パフォーマンスと誤解されかねない構成だが、観客は次第にある驚きに満たされていく。何よりも感動的なのは、分類され、次々にプロジェクションされるひとつひとつのダイアグラムの精密な美しさであり、同時にまた、プロジェクションされた図解にしたがって、見事なまでに「ダイアグラム通り」のエネルギーの流れと幾何学的流動が立ち上がる実演の素晴らしさである。おそらく図解と実演の双方がなければ、とても短時間で「コーン」の世界観の核心に接近することなど不可能なのだから、体系自体の完成度もさることながら、作品の導入部としても十分に計算された構成だと言わざるをえない。そして、徐々に序盤から中盤に移行するにつれて、「解説」の身振りは次第に高揚し、ひときわ熱を帯びて、もっと長めのデモンストレーションのようなものへと近づいていく。とりわけ、男女一組のダンサーによるデュオがつくりあげる、いっさいベタついたところのない清潔で柔軟で、けれどもひとつの統一的な秩序を失わない精緻な官能性は、このままいつまででも見ていたいと思わせるほどの豊かで、完璧な調和の世界を実現している。いつのまにか、コーンについて無知に等しかった私たちが、まるでコーンの宇宙観にダイレクトに包まれてしまったかのような深い印象を与える――。
だが、きわめて興味深いことに、そんな無限の幸福にしばらく浸っているうちに、私たちの心のなかに、小さな不安のようなものが少しずつ頭をもたげてくる。なぜなら、目前の世界の豊かさがあまりに完璧すぎて、他に何も付け加える余地がないように見えてくるからなのだ。たとえば、男女一組のダンサーは、相互に相手の動きを絶妙なリズムで交換し合い、豊かなハーモニーを作り出すのだが、それを見ていると、まるで世界には、男女のバイナリーな関係性さえあれば、他には何も必要ないかのようだし、高度な技術的達成に裏打ちされた二人の技法、すなわち、なめらかな身体運動と図解との完璧な「一致」に長時間接していると、まるで目の前で踊っているのがもはや個人ではなく、無時間的な幾何学的図形のフローからなる超越者の営み=宇宙的音楽のように思えてくる。まさにそのことが、甘美でありながら、なんとも言えず息苦しくも思えてくるのである。いったい、この完璧な美のどこに、「コンテンポラリー」の空隙がありうるというのか!・・・
あたかも「個人の自由」など、一切入り込む余地のない完璧さ。だが、ピチェがコーンの徹底的な形式化の果てに目指していたものが、決して自由の放棄でなかったことは、中盤から終盤に差し掛かるころから、急速に明らかになっていく。冒頭から舞台下手でラップトップの生演奏を行っていた音楽家(ザイ・タン)のノイズがしだいに大きくなり、キラキラした銀色の(作り物の)天井がぐんぐん下降して踊り続けるダンサーを覆い隠し、やがてサイレンの音が他を圧する「騒乱」の場面が展開されることになるからである。――なるほど、遠く離れた日本人の耳にさえ、昨今のタイの民主化運動とその弾圧のニュースは、たとえ断続的であっても届いてはくる。だからといって、この緊迫した場面を、たんに独裁的な権力による抑圧の「メタファー」だと勘違いしてはなるまい。たしかに「メタファー」としての機能がまったくないとは言えないが、それ以上に観客を揺さぶるのは、ついさっきまであれほど完璧だった無時間的な運動の美がついにほころびを見せ、そこからダンサー「個人」としか呼びようのない動きの欠片のようなものが、具体的に目に見え、感じられる何かとして析出されてくることだ。したがって、ここで深刻な問いに直面しているのは、王室改革にまで切り込もうとするタイの民主化運動だけではない。「コーンのコンテンポラリー化」を目指すピチェにとっては、「自由」の在処を見出そうとすることは、ほかでもないコーンの問題でもあるからだ。危機にさらされているのは、彼らの政治的自由だけでなく、まさに踊る身体の自由でもあるということ。そのことを観客は彼らの葛藤を通じて目撃し、全身で体感することになる。
昨今、コンテンポラリーダンスの行き詰まりが指摘されて久しい。その結果として、しばしば「伝統」が召喚される。忘却してきた伝統芸能や地域の祭りがあらためて注目され、踊ることのルーツを取り戻そうとやっきになっている姿も時折見受けられる。もちろんそういう試みのすべてが無駄だというつもりはないが、たんに現代舞踊の根拠を理屈で説明してくれる何かが欲しいだけといったケースもある。その意味で、『No.60』が私たちに鋭く突き付けてくるのは、「伝統」と「現代」の交差点を、徹底的に踊る身体のレベルに落とし込むことの豊かさと困難である。「伝統」における「自由」とは何なのか。それは「現代」における「自由」とは違うのか、それとも重なり合うのか。「伝統」の、そして「現代」の、はたしてどこに真の「自由」は見出しうるものなのか。そうしたことを20年にわたって具体的に問い、いまなおそれを見出そうとして文字通り格闘しているピチェ・クランチェンという身体の現場に、私たちは言葉を失いつつ、その行方を固唾を飲んで見守るほかない。彼の問いは、どこかで確実に、私たち自身の問いでもあるのだから。