舞台は山間の過疎の村に建つ寺。季節は夏だ。人口減少が進んだ過疎地の寺と聞くと、我々はつい、葉擦れの音とともにセミの声が響く静かな情景を思い浮かべる。だが『DOGHOUSE』に登場する寺は、どうやらそんなに静かではないらしい。
年季が入った建物である。上手の和室から下手へと、中庭に沿うように渡り廊下が伸びている。冒頭、乗ってきた自転車を庭先に置いて、寺に跳び込んでくる若者、圭太が、何とも騒がしい。器械体操よろしく跳ね上がり、じゃれかかるように話す姿は、いたずらな子犬を思わせ、「立場がない」「行き詰まり」を意味するスラングだという作品タイトルとどこか響き合う。彼は地元の土建会社で働いていて、お堂の修理と、寺で行われる祭りの準備のためにやってきたのだ。続いて圭太の幼なじみの大地も手伝いにくる。彼は大学卒業後に帰郷し、外国人向けのゲストハウスを村で始めるつもりなのだ。彼らを迎える寺の住職の隆は、ラフな普段着姿だ。

撮影:松本尚大
次々に登場する人々が、その場だからこそ通じる独特のノリで、ハイテンポな関西弁を交わし合う。言葉の極端な省略、独特の発音も面白い。たとえば彼らは、相手の言葉に「はい」でも「うん」でもなく、「おん」と返事したりする。不思議な音である。
住職の隆と妻の直美はともに50代。再婚同士で、隆は息子の拓也、直美は娘の桜を連れて新たなステップ・ファミリーを築いた。寺には保育所が併設されていて、以前は多くの子供たちが通っていたようだ。今は保育士の桜が切り盛りしているが、通ってくる子供は数人にまで減り、寺の祭りも年々寂しくなっている。圭太と大地はともに25歳。それより少し年上の拓也は、がん細胞の研究を続ける大学院生だったが、諸々のストレスから研究をやめてしまい、寺にひきこもって、家族や村の住民たちの様子をじっと観察している。大地の婚約者で、他地域から村にやって来た有紗、村のリサーチを続けてきた市役所職員の美穂も、親しげに寺を出入りしている。
一見、何気ない日常。だが観る者は、登場人物の会話から、それぞれが抱えている迷いや屈託、家庭や地域に対する考え方の食い違いを、少しずつ知るようになる。そしてついには、隠されていた意外な人間関係が明らかになる。隆と美穂が二人きりになった時にとる行動は、二人が不倫の関係にあることを示す。以前は圭太と付き合っていた桜は、今は同性の有紗と恋をしていて、いずれは寺を出て有紗のそばで暮らそうと考えている。

撮影:松本尚大
その昔、日本の伝統的家族は「家」と呼ばれた。そこは生産活動と暮らしとが重なり合う場所だった。だが近代――明治中期になって、西欧の考え方が流入してくると、「家」に代わって「家庭」という言葉が一般化する。家長と構成員の縦の関係が軸になった「家」に対し、「家庭」は夫婦の横の関係が軸になっていて、第二次世界大戦後になると、個人の尊厳と両性の平等がその根幹を支える思想となる。そして「家庭」は、家事や育児や介護の場であるだけでなく、人が社会の中で直面するストレスから解放され、癒やされる、シェルター(避難所)としての機能も期待されようになった。
だが現在はどうだろう。世帯の人数が減って家庭の力は衰えて、期待されていた多様な機能を、もはや十分には果たせなくなっている。情報通信技術や交通網の発達は、血縁や地縁によらない関係も含め、新たな小集団を生み出す契機になってはいるものの、そうした変化が一体どこに向かっているのか、今の私たちには想像もつかない。
この舞台は、家庭や地域共同体など、血縁や地縁をもとに人間が形作ってきた大小の集団が、内側から変質してしまっている現実を浮き彫りにしていく。加えて注目したいのは、登場人物たちが、集団の変質に気付きながらも、それまで続いてきた家庭や地域の「外枠」を簡単には放棄し切れないでいる点である。
たとえば大地は、有紗と桜の親密な関係を知って驚愕し、混乱するが、それでも有紗への思いは変わらず、彼女と結婚しようとする。直美は、隆と美穂との不倫関係をとっくに知っていながら、家庭を壊さない。最初の夫に絶望し、再婚して寺にやって来た大きな動機が、「居場所がほしい」という願いだったからだろうか。本来静謐な場所であるはずの寺を覆う不協和音。拓也は、それらの事実に気付きながらも、自分からは口に出さない。終盤、拓也と桜は、それぞれの生活のあり方について激しく口論し、互いの思いを爆発させることになるが、こんな言葉が拓也の口をついて出る。「……共同責任やろ、嘘でも家族やねんから」。「嘘でも家族」。何とも気になる言葉である。
内側からの変質は寺についても言える。寺は、かつては住職の家庭であり、宗教行事や村の子供たちの養育の場でもあって、地域の核として機能していた。だが少子高齢化が進み、人口が都市部に流入して過疎化が進むにつれ、その内部は大きく変貌する。先祖の墓を守ることが難しくなった人々による「墓じまい」の増加や、檀家の減少、寺の廃統合、住職の兼務・代務といった昨今の現実が、この物語の背景には横たわっている。

撮影:松本尚大
『DOGHOUSE』は、京都芸術センターとロームシアター京都が若いアーティストの創造を支援するプログラムとして行っている「KIPPU」の作品である。上演団体「餓鬼の断食」は、旗揚げしてまだ5年。20代の主宰が率いる実に若い劇団だ。だが今回は隆役に坂口修一、直美役に木全晶子、美穂役に永津真奈と、劇団員より年長の実力派を配した。幅広い作品で実績を積んできた彼・彼女らだが、それぞれに今も〝キュート〟と言いたくなるような魅力があって、この若い劇団が作る劇世界の中で、重要な役割を果たしていた。これまでになく年齢層に幅があるキャスティングは、劇団にとっては大きな挑戦だったに違いない。脚本・演出の川村智基の、作品に込めた強い意欲が伝わってきた。
けれども劇作家は、家庭や地域についての議論をかきたてることを目的に戯曲を書いたわけではないだろう。同時代の人々が抱えているアクチュアルな迷いや屈託を、これからを生きていく若者の触覚で敏感に受け止め、すくい上げて、繰り出される言葉のシャワーの中に織り込もうとしたのではないか。ただ、地域への外国人の受け入れ、異宗教の礼拝堂の設置、村の産業構造の変化、自治会をめぐる対立、セクシュアリティの多様性など、盛り込まれた情報は実に多岐にわたっていて、しかもそれぞれがずっしりとした重みを持っている。このことはもちろん、劇世界の厚みにつながったが、一方で、観客の理解が十分に追いついていかない側面があったようにも思える。あえて言及されないこと、ある種の情報の「余白」を、もう少し残しておいてもよかったかもしれない。
寺の仏像の盗難事件が起きた後、エピローグとして2年後が描かれる。どうやら拓也は寺を継いでおり、桜と有紗が一緒に訪ねてくる。これは家庭や地域の一つの「終末」なのだろうか。『DOGHOUSE』は、未来の集団の姿に対する我々のそこはかとない不安、寄る辺のない孤独感、それでも何かをよすがに、つながりの中で生きていこうとする人恋しさのようなものを、舞台に上げてみせた。この若い劇団は、人間の営みの中に何を見つけ出していくのだろうか。これからの歩みに注目したい。