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ロームシアター京都×京都芸術センター U35 創造支援プログラム “KIPPU”  努力クラブ「世界対僕」公演評

メタで走り抜けたドライブの到着地は

文:徳永京子
2023.5.1 UP

これまで何本、行き詰まった作家を描いた物語を観てきただろう。書けない、アイデアが湧かない、書けてもそれがおもしろいのか判断できない、できないと言えない、そして周りが信じられない──。自分を徹底的に責めたものもあれば、自分のダメっぷりを露悪的に描いたもの、あるいはナルシスティックになっているもの、それらをミックスしたものなど、さまざまな表現で発表されてきた。そのあまりの多さに、100の行き詰まりには100の理由があるのは理解しつつ、いつの頃からか、それ自体が創作を生業に選んだ(選ぼうとしている)人の通過儀礼のひとつなのではないかと考えるようになった。

果たして努力クラブの『世界対僕』も、行き詰まった作家を中心に据えた作品だった。ここで採られた方法は、徹底したメタフィクション。オープニング、と書いてしまって良いのか判断がつきかねる、どうやら始まったらしいタイミングに、ひとりの男性がふらりと舞台上に現れて、自分はこれから始まる話の作者である合田団地だと名乗る。そして、当初は自分が合田団地役を演じようと考えて台本を書いていたが、思いの外せりふが多くなり大変になったので、別の人にお願いすることにしたと言い、舞台袖に向かって「西さん」と呼びかける。呼ばれた男性は「さあ、今日から君は合田団地だ」と言われると、間髪入れず「僕、合田団地。僕、合田団地」と大声で繰り返す。最初に出てきた男性は、ユニークな話になっていると思うので、おもしろいと思うところでは笑ってくださいと語り、「世界対僕、始めます」と言ってハケていく。

残された西は、先の様子とは打って変わって落ち着いた、やや疲労と諦観を感じさせる口調で自己紹介をする。いわく、自分は得体の知れないヤツらという劇団で台本と演出を担当しているが、最近はモチベーションが湧かず演劇をやりたくない。でもこの状態をおもしろいと思っていて、それを作品にすれば良いんじゃないかと思っている、と。

ここまでで、5分経ってはいないと思う。けれどここまでに、どれだけのメタが仕込まれていただろうか。念のため書いておくと、メタ(メタフィクション)とは、観客がその作品に没入しそうになると、没入させるために世界観を懸命に構築してきたつくり手が、自らその世界観を壊して観客を我に返らせる行為、と理解していただきたい。本作ではとにかくそれが繰り返される。まず、本来は内側にいるはずだった作者が作品の外に出てきた。そして作・演出をつとめる、いわば“中の人”の代表が「これから始めるのはフィクションです」と宣言した。また、本人が演じるはずだった合田役の交代をあえて観客の前ですることで、合田という登場人物は、キャラクターとしての合田となった。何の説明もなく稽古もなく役を振られるも、機械的にそれを受け入れて瞬時にそれを受け入れる西のドライさもまたメタだが、行き詰まった作家である合田をスムーズに身体化した西が所属しているのは、劇団得体の知れないヤツらという架空の団体で、努力クラブではないのだ。それなのに得体の知れないヤツらが取り組んでいる作品のタイトルは『世界対僕』という入り組み具合だ。虚かと思えば実、実と思えば虚の仕掛けが、目くらましのように次々と立ち上げられる。

ことわっておくと筆者は、努力クラブを観るのは本作が初めてで、普段どんな作品をつくっているのか、これまでどんな活動をしてきたのか、詳しくは知らない。だからこうした手法は今回に限らないのかもしれないが、それでも『世界対僕』の取り上げるべき点は徹底したメタだと書くのを躊躇しない。理由は、本作のテーマがこの手法を切実に必要としていると感じたから。おそらく合田(本人のほう)は、作品のエンジンに徹底したメタを装備することで──この状態がおもしろいと言いながら──作家なのに書けないという暗い霧に追いつかれ、飲み込まれないように全力で走ろうとしたのではないだろうか。

当然、以降もメタは繰り返される。しかしオープニングのダッシュは間もなくスピードを落とし、話が劇団得体の知れないヤツらの世界へと舞台を移すと、物語はワルツの構造を取る。「書けないつらさから逃れるための妄想か、いつか書いた物語の切れ端か、合田の状況をすべて知って何も言わない優しい女性に癒やされるパート」「無神経な正直さや優しさ、仲間意識がかえって合田を傷付ける劇団員との稽古のパート」「出演者へのインタビュー、演劇仲間や行きつけのお店の人など合田ファンからの演劇をやめないでメッセージを撮影したパート」、つまり、虚、実、両方が混じり合ったボーダーラインという3種類の要素がほぼ同じボリュームで順番に展開していく。そして最後は、やはり劇団はやめないと劇団員に言いつつも浮かない表情の合田についてきた女性が、1度は「キスしよっか」と誘うものの、本当はキスなんかしたくない、合田さんには演劇をつくってほしかった、好きですと言い、合田が「ごめんね、そんなセリフ言わせちゃって」と謝ってラストとなる。

 

では合田は、逃げ切れたのだろうか。メタがもたらすと期待される、乾いたユーモア、軽やかな空虚感、第三者感覚の客観性などにたどり着けたのだろうか。筆者は、しめやかな重さをまといながら、スタートから少しだけ離れた場所に戻ったように感じた。その理由は、西と西以外の俳優の演技力の差、それをテンポやミザンスなどで補えなかった演出、盛り込み過ぎの内容など、具体的な問題点であって、心理的な問題とは別だ。実際にはこの上演を機にモチベーションが戻っていてほしいし、本当は行き詰まった作家の苦悩などあくまでも作劇上で設定したテーマで、合田と努力クラブにうまく騙されたのかもしれないとも思う。だとしたら、お見事でした。

  • 徳永京子 Kyoko Tokunaga

    演劇ジャーナリスト。雑誌、ウェブ、公演パンフレットを中心にインタビュー、作品解説、朝日新聞 首都圏版に劇評を執筆。ローソンチケット演劇専門サイト『演劇最強論-ing』企画・監修・執筆。東 京芸術劇場企画運営委員。パルテノン多摩企画アドバイザー。せんがわ劇場企画運営アドバイ ザー。読売演劇大賞選考委員。著書に『我らに光を──さいたまゴールド・シアター 蜷川幸雄と 高齢者俳優 41 人の挑戦』、『演劇最強論』(藤原ちからと共著)、『「演劇の街」をつくった男── 本多一夫と下北沢』。

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