努力クラブの『世界対僕』の終盤で流れる合田団地に演劇をやめさせないための映像に登場するのは、「合田をまったく知らない人」という条件で集められた人々だ。かれらは口々に「合田くん、演劇をやめないで!」とカメラに向かって話しかけるが、それは「僕」こと合田が接する「世界」のさらに外にいる人々としてあり、かれらの存在は、合田が作品のなかで言及する世界が、もっと限定的な社会を指しているのだと明らかにする。
では『世界対僕』の世界とは何か? 「演劇」だ。より厳密に言えば「関西における演劇」であり、さらにそれは「京都における学生演劇の延長線上にある小演劇」のシーンへと微視的に漸近していく。狭い場所への撞着といささか情けなくもある合田自身の自己愛を『世界対僕』は身も蓋もなく主題としており、したがって映像に登場する人々同様に世界の外にいる筆者は「知らんがな」と身も蓋もなく思ってしまうのも仕方のないことだ。
だが、そのような狭さを扱うことにこそ広義の劇場空間を様々な場所に定位する身体芸術の意義がある。上演回によって即興的に内容を変えていった合田本人による前説の演芸的な瞬発力の発現には、作品が扱おうとする狭さをメタ的な言及によってあえて提示し、不特定多数の観客に「それに付き合ってみようか」という意識を植え付ける役割を十全に果たしている(前説が抜群に巧い)。
まさにその場/その時にこそ合田が真に接するべき「世界」の実体は現前しているはずで、観客が有する無関心との摩擦を経て結ばれる共同性は作品冒頭ですでに成就している。上演回ごとのウケた/スベったの成否による上演の強度の弛緩はあるにせよ、事前に構想された「世界」と「僕」との闘争の構図は、作品が始まると同時にすでに終結しているのだ。
そのように考えたとき、冒頭と実際的に対極に位置するラストシーンでの「世界とは演劇の隠喩であった」というリリカルな告白は、作品の始まりと終わりを結んで閉じる円環構造という、作家としての合田の企みを顕わにする。参考として、以下に該当箇所を引用する。
女28「そうですね。ねえ、合田さん。合田さん、ねえ」
西「なに?」
女28「キスしよっか」
西「え、いいよ。申し訳ないし。したくないでしょ」
女28「うん。したくない。キスなんかしたくない。合田さんには、もっと演劇してほしかったんですけどね。ねえ、合田さん、好きです」
西「ごめんね。そんなセリフ言わせちゃって」
合田(役を演じさせられている西役の西マサト)が謝罪しているのは、もちろん俳優が演じる役に対してではなく、その発話に先行して合田によって書かれた演劇の言葉であり、すなわち演劇そのものだ。演劇を都合よく利用してしまったことを悔やむ芝居を合田はするが、それは作品冒頭への回帰によって、即座に一定の解決を得るだろう。
このような終わらない日常を、1980年に生まれたオタクでもある筆者は、「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズの「エンドレスエイト」や押井守の個性が発揮された『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』で描かれた、終わらない夏休み、繰り返される文化祭前夜を想起させるものとして、親しみを持って迎えることができた。
そのような閉じて円環する演劇=世界が、起承転結や序破急のセオリーを半ば無視するかたちで、いくつかに分類しうる質感の異なるエピソードが羅列して紡いでいくのは必然だろう。欲を言えば、円環を結ぶポイントが結末にではなく中盤に配置され、終わってしまった演劇との関係の「その後」を様々に表象していくような、流行の言葉で言えばマルチバース的に世界を無数に枝分かれさせていく叙述の方法が発明されていたならば、『世界対僕』はより魅力的に不安定を描く円環となっていたかもしれない。
作品後半で合田役に疲れた西は、その役割を先輩である後藤に譲り渡す。後藤を演じているのは合田本人と長い友人関係にあるという落語家の月亭太遊で、小劇場演劇・学生演劇とは明らかに異なる演技体を有する新しい合田像の提示は、『世界対僕』が描く孤立系の円環から、広がっていく開放系の螺旋軌道に移行し、複数化する活路となりえた気もした。
もう一つ印象に残ったのは、思い詰めた合田が訪ねるセクシーキャバクラのシーンを支える浅野有紀のパフォーマティビティだ。客と嬢の仮初めの親密さを演出するために用いられたマイクを通して届けられる密やかな対話は、演劇が扱う空間の狭さ=極小性を、その繊細さを破壊することなく、風船のように自在に伸縮させるものだ。クローズドでありながら、遠くへとクリアに届けられる電気的に拡張された声は、合田が本作のなかで拘泥している狭さへの愛着と嫌悪の両方を鮮やかに造形している。このように俳優の職能的な技術やパフォーマティビティに支えられているのも『世界対僕』という作品に備わっている得難い美徳だ。
『世界対僕』が扱おうとする世界=演劇の圏域は狭い。その狭さを規定するものを決壊させるような批評性の破壊力はここまで述べたようにあらかじめ断念されている。だから作中の合田は、文脈や共同性を無効化する「暴力」や「悪意」の貫通力に青臭く拘泥するのだろう。
しかし、京都のある世代に根付いてきた演劇=世界のポートレートを描こうとする真摯さは、『世界対僕』という作品が、京都で生まれ、演じられたことの意義を支えている。そのありようは、地域に伝わる祭りや、長く続けられてきた地域住民の行事に近い。もしも現代の演劇が地蔵盆のようなものになれたとしたら、大きな達成だ。
あえて繰り返すが、筆者にとってここで語られようとしていることは基本的に「知らんがな」である。しかし、この問題を無関心では済ませない人々がいる限り、『世界対僕』で扱われている葛藤、それを慰撫する「終わらない日常」の感覚、あるいはセカイ系的な世界線への跳躍は、かたちを変えて何度でも演じられるべきだ。