読者の皆さんには舞台芸術や劇場を好きになったキッカケがあるだろうか。私の場合、高校生のときに友達から借りた一枚のCDがそれである。ロームシアター京都は、2019年から「劇場の学校」と題して、中学1年生~18歳(高校3年生)に、「演劇」、「舞踊」、「メディア表現」の各分野で活躍中のアーティスト・実演家が講師を務める5日間のワークショップを提供してきた。同時に、哲学やメディア論、ダンスの身体性などをテーマとするオープンクラスも開講してきた。一連の取り組みは、中高生年代の大切なキッカケとなったに違いない。筆者は、初年度から「劇場の学校」に密着し、参加者の声を聴くための質問紙調査を行ってきた。ここでは、「劇場の学校」の4年間のまとめと、参加者から寄せられた声から、この事業のもつ意義と可能性を考えていきたい。
「劇場の学校」の参加者は、これまでの4年間でのべ223名に上る。約7割が中学生、約3割が高校生(18歳を含む)で、京都市内や大阪、滋賀といった関西圏だけでなく、東京や静岡といった遠方からも参加者が集まった。この事業のひとつの魅力は、学校や学年の枠を超えて、参加者が互いの表現を通じて触発され、交流していく点にある。質問紙調査から、参加者の大部分(70%)は「面白そうだから」という理由で参加を決めていたが、「視野を広げるため」(62%)や「将来の夢のため」(51%)といった回答も決して少なくなかった。新しい価値観に触れて、視野を広げるという「学び」と、具体的な将来の夢に近づく一歩となるのではないかという期待も大きい。参加者の多くが、部活動や習い事、独学での実践経験をもち、ミュージカル鑑賞や美術館訪問といった鑑賞経験をもっていたが、過去にプロのアーティストによるワークショップ等への参加経験をもつ者はいなかった。また、そもそも実践経験も鑑賞経験もないとした参加者は全体の約2割を占めていた。
直近のワークショップからその様子を紹介したい。2022年度は、劇作家/小説家として活躍中で、チェルフィッシュを主宰する岡田利規氏、ダンサーの木田真理子氏、美術家/映像作家の山城大督氏の3名が各コースの講師を務めた。岡田利規氏による演劇コースのテーマは“想像”。岡田氏は、「いくら立派な舞台セットや衣装、良い台詞があったとしても、見ている側が想像できなければ、演劇は成立しない。演劇にとって想像が大事だということを、ワークショップを通じて感じてほしい」と述べている。自分が過去あるいは現在住んでいる「家」を想像しながら話した後、他人の「家」を想像しながら話す。さらに、その家に幽霊を登場させて…と、身近なものから段階的に想像を進め、演じる実践を重ねた。
・始め「演劇」は、字の通り、劇を演じる、つまり参加者が台詞を行ったり、振付をしたりするだけと思っていました。しかし、今回、演劇コースに参加して、ただそれだけではないことが分かりました。
・終始、「想像すること」にフォーカスして取り組むことで、新たな気づきが得られたのが良かったです。(中略)「想像すること」がしっかりできていれば「演じること」はとても楽だということ。この気づきを、演劇部の普段の練習でも生かしていきたい。
こうした参加者の声から、“想像”が俳優と観客の間のコミュニケーションに不可欠で、演技によって観客は“想像”を見ることができるようになることを、体験を通じて学んでいった様がみてとれる。
木田真理子氏の舞踊コースでは、「歩くこと」について考えることから出発した。様々な方向に歩いてみる。足音の強弱や歩く速さを変えてみる。すり足やつま先立ち、四つん這いなど様々な角度とパターンの歩き方を試すことで歩くことの可能性を模索した。後半では、日常、何気なく行っている行為や動作を、参加者一人ひとりが提案し、それを作品の構成要素としてシークエンスを創造した。靴ひもを結ぶ、顔を洗う、コップを置くといった「日常の動き」が、高雅なバッハの音楽に合わせて、「ダンス的な動き」へと昇華されていく過程を経験していった。
・参加する前は、道具や振り付けを覚えないと踊れないと思っていました。しかし、日常の動きさえもダンスになるのだと感じました。
・「ダンス」という枠組みが広がった。
・音が無くても、豪華な舞台装置がなくても、観てくれる人と自分の気持ちがあれば、ダンスになるんじゃないかと思いました。特に、日常のしぐさを踊りにしていく時にそれを感じました。
日常の仕草の断片を作品に取り入れた故ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団で客演した木田ならではのワークショップは、バレエ経験者の多い本コースの参加者に、新鮮さをもって迎えられた。踊ることの根源に改めて立ち会うことで、体の細かな感覚を研ぎ澄していく機会となった。
メディア表現コースの中で、山城大督氏は、新旧メディアを駆使した唯一無二のメディア表現を紹介することで、参加者の抱く固定観念に揺さぶりをかけた。全員で、塩見允枝子のイヴェント作品をパフォーマンスしたり、おそらくは10代の若者がほとんど触れたことのないインスタントカメラ「写ルンです」でロームシアター京都周辺を撮影し、組写真を製作したりと、多様なメディアを使った作品の鑑賞と創作を行った。「ここは劇場の『学校』だが、学校のように正解があるわけではない。正解は自分の中で見つけたり、分からなかったら、なぜ分からなかったのかを考えたり、相手のものをいいなと思ったりしたら伝えてほしい」、「自分がやりたいことを思いっきりやってほしい」と山城氏は参加者にエールを送っていた。最終日には「メディア表現フェス」で、一人ひとりがアイデアを展開し、自分らしい作品を披露した。
・もともと芸術は絵を書くことや、音楽関係だけだと思っていたけれど、山城先生の言葉で「芸術」の範囲が無限になりました。
・いろんな人のパフォーマンスを見たり、自分がメディアを通して誰かに何かを伝えたり、ということを通して、「こんな表現のしかたもあるんだ!!」とか「これ面白いなー」とか、新たな発見ができ、自分の将来、人生にも影響があったと思います。
いずれのコースでも、講師は知識を一方的に伝達するのではなく、多くの問いを参加者に投げかけた。「演じているときに想像は見えているのか?」、「ダンスに必要なものは?」、「メディアとはそもそも何か?」といった本質的な問いを前に、彼らは自問し、時に講師や仲間と対話しながら実践を繰り返す。試行錯誤を通じて、参加者はそれぞれのジャンルに対する新たな見方と新しい自分を発見していったのではないだろうか。岡田氏は、「(このコースによって)演劇というものに対する認識をアップデートできている」とし、「アップデートを求めて来ているわけではないのですが、(それに対応できる)柔軟性は、もしかすると、あの年代ならではのものかもしれない」と10代の若者を対象としたコースの意義を語っている。山城氏も、「『劇場の学校』は、中高生にビジョンを見させる、そして、持たせる5日間だと思っています。年齢が低いほど、ビジョンをイメージすることができる。経験している年数が少ないからこそ、新しいものに対する反応が速い」と言う。
「劇場の学校」は、参加直後だけでなく、一年後や二年後にも、参加者に中・長期的な変化をもたらしている。追跡調査として行った、一部の参加者へのインタビューでは、「芸術・創造的スキルの向上」や「芸術文化に関する理解の深まり」といった当初から想定されていた変化に加えて、劇場での公演やワークショップに積極的に出かけたり、出演したりするようになったとの変化(「芸術文化活動への参加」)や、一歩踏み込んで、将来、舞台芸術に携わっていきたいと考えるようになったとの声(「進路に対する意欲の醸成」)が語られた。創作や実践に際しては、技術スタッフの支援の下、音響、照明などがふんだんに使われ、バックステージツアーに感動したという声も頻繁に聞かれた。こうした劇場ならではの取り組みが、それぞれの専門性をもつプロフェッショナルの協働体制の下に一つの舞台が成立していることを体感する機会となり、より明確な将来像へと結実している。さらに、自身の社会的スキルが向上したという変化(「個人的・社会的スキルの向上」)を述べる意見が多く寄せられた点も興味深い。「劇場の学校」での体験は、人に伝える力や周囲を観察する力を育んだり、相手の心情と動きの関係を考えたりするキッカケにもなっていた。2019年度のパンフレットの中で、当時のプログラムディレクター橋本裕介氏は、「劇場で行われる表現活動は、技術・情報・他人との対話を駆使して成り立つ」もので、「社会で『共に』生きていく上で必要なあれこれがつまっている」として、劇場を「社会教育の場」と表現した。「劇場の学校」には、他の参加者による表現を見たり、劇場スタッフも含めて協働したりするシーンが散りばめられており、こうした経験が参加者の社会性の涵養にも繋がっていた。
明らかに、「劇場の学校」は、芸術家の養成を主目的とした「トレーニング・ワークショップ」とは一線を画している。ここでの経験は、それまでに抱いていた世界の見え方を、広く、更新するキッカケとなっている。経済的な利益が優先されがちなこの世界において、矢継ぎ早に出てくる表現やアート、デザインを「提示されるまま」に受け入れるのではなく、一度立ち止まって、「演じること、身体、メディアとは何なのか?」と自身に問い直す。「劇場の学校」は、そうした姿勢の大切さを伝える場になっていた。若者は、成長と共に、多くの課題に直面していく。その時に求められるのは、想像力を駆使したり、その時代の価値観を再考したり、従来とは違ったあり方を話し合う姿勢ではないだろうか。「劇場の学校」は柔軟な心をもつ10代に大きな影響を与えたが、実は劇場にとっても大切な意味をもっている。かつて、劇場は、娯楽の場としてだけではなく、イデオロギーや価値観に対して問題提起を行う社会的な装置としての機能も果たしていた。しかし、それが希薄化している今日だからこそ、日常を再考する場としての劇場を次世代に示すことで、改めて劇場がこうした力を取り戻していくキッカケにもなってほしい。