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ロームシアター京都 レパートリーの創造 ホープス

アンペルマンを救え 連載①:住民と観光客のあいだで

文・写真:野村眞人  編集:儀三武桐子(ロームシアター京都)
2025.6.26 UP

2024年度から始まった、京都から若手演出家と世界を目指すプロジェクト「ロームシアター京都 ホープス」。アソシエイト・アーティストの野村眞人・西田悠哉が、新作・旧作の創作・発表に取り組む。Spin-Offでは、ふたりそれぞれの創作のエッセンスが垣間見えるエッセイを不定期連載でお届けする。
初回は現在、ベルリンに文化庁新進芸術家海外研修制度で滞在している野村眞人だ。


 

住民と観光客のあいだで

 

 2025年の1月に、ベルリンに引っ越した。1年間だけの滞在だから、生活に必要な最少限のものだけをスーツケースに詰めると、意外とスペースが余ったので、そのほかにも本や映画をいくつか、それからお気に入りの陶器の箱を持っていくことにした。結局、荷物はスーツケース2個とボストンバッグ1個で、ちょっと長い旅行に行くぐらいの量になった。
 ベルリンの新しい部屋は、広くはないけれど、ひとりで暮らすには十分だった。大家は私と入れ違いでフィリピンにワーケーションに出かけたので、到着した日に30分程度しか会わなかった。部屋の窓からはシュプレー川が見え、川の向こうには、ベルリンの壁が見えた。その壁の向こうは、かつて東ベルリンだった。到着してしばらくは、ずっと曇っていて、雪もチラついていた。それでも「京都よりは寒くないな」と思った。晴れた日には部屋から出てすぐの、川沿いのベンチに座るのが気持ちよくて、そこからは川を渡る大きな古い橋が見えた。足元で何かが陽射しを反射して光っていて、目を向けるとガラスの破片だった。よく見ると割れたビール瓶の破片で、あたり一帯の路上に散らばっていた。履いていたスニーカーはソールが薄く、道を歩くのが少し不安になったので、次の日に頑丈な靴を買いに行った。8cmもある厚底のブーツを買って、そのまま履いて帰った。道に散乱したガラスの破片がキラキラ光って、ちょっと綺麗なものに見えた。少しは街に慣れてきたのかなと思った。

 とても気に入っていた家だった。けれど、ある日フィリピンにいる大家から連絡が来て、急に家賃を値上げすると言われた。契約書の数字は実は間違いで、本当は100の位と10の位の数字の順番が逆だったらしい(そんなバカな)。メッセージアプリで相談をしたけれど埒があかなかったので、引っ越すことにした。引っ越しは好きだし、荷物もなんてことはない量だったけれど、肝心の家がなかなか見つからなかった。新しい家を探しながら、ふと、そういえばこれまでにどれくらい引っ越しをしてきたのだろうと思った。昔からよく引っ越しするほうだとは思っていたけれど、数えたことはなかった。たぶん、今回で18回目だ。

 引っ越しを数えているあいだ、保育園に通っていた頃に住んでいた長野の市営住宅のことを思い出した。この団地に引っ越したのは、祖父母と一緒に暮らし始めるためだったと思う。最初は母と2人で暮らし、そこに祖父母を呼んで、4人で暮らした。そこに叔父も引っ越してきた。祖父母も、叔父も、みんな青森出身で、故郷の津軽弁を話すので、母も家では津軽弁を話すようになった。私もそのころは少し津軽弁がわかっていたはずだけれど、今ではほとんど覚えていない。食卓にも郷土料理が並ぶようになった。大きなホタテの貝殻をフライパンがわりにして作る卵焼きは味噌あじで、さらに醤油をかけて食べていた。しばらくして、母の再婚を機に父が働く会社がある愛知県に引っ越して、社宅に住み始めた。福岡出身の父は砂糖を入れた甘い卵焼きが好きだった。次の年、妹が生まれたので、目の前にあるもう少し広い社宅に引っ越した。その家から、大学進学のために京都に出てきて、初めて一人暮らしを始めた。それから14年経ち、今では京都が最も長く暮らしている街になっている。
 思えばそのころは、引っ越しごとに、生活環境だけでなく、家族の形も、話す言葉も、食事の味も変わっていった。引っ越し自体は好きだし、住んでいたどの町のこともよく覚えているけれど、同時に、いつもどこかで、ここは故郷ではないと感じてもいた。喪失感というと大袈裟に聞こえるし、でも故郷と呼ぶのは白々しい。きっとそれは場所や言葉じゃない別のものに託されているという気もするから、全然ネガティブな感情でもないのだけれど、生まれた長野や育った愛知に行っても、どこかいつも観光客みたいな気分になるのはどうしたらいいだろう。ベルリンにいる今もそうだ。次の家を探しながらそんなことを考えていた。

 ベルリンの住宅事情は厳しく、全然見つからなかった。知り合いを頼ってようやく帰国まで住める部屋を見つけたけれど、入居は2ヶ月ほど先になってしまうので、それまでの間を埋める別の家も探す必要に迫られた。そこで、民泊を使うことにして、なんとか今の家を出るまでに引っ越すことができた。借りられたのは1部屋だけで、他にある部屋も貸し出されている。だから毎週、誰かがやってくる。最初はフランスから来た親子、次はオーストラリアから来た2人組の観光客といった具合に、誰か来る。仕事をしたり、買い物をしてキッチンで料理を作ったり、すっかり自分の家かのように住めるようになったころ、新しく来る宿泊客に思わず「ようこそ」と言いたくなった。自分もすぐに出ていくのに。
 住民と観光客の間のような、このなんとも言えない気分で、いっとき別の観光客と共に暮らしながら故郷なるものについてあれこれ考えている。そして、滞在が終わって京都に帰ったときにはどう思うのだろうかと想像している。

文・写真:野村眞人


レパートリーの創造 ホープス 野村眞人
ワーク・イン・プログレス
2026年1月~3月

  • アンペルマンを救え 連載①:住民と観光客のあいだで

    Photo by shimizu kana

    野村眞人 Masato Nomura

    1991 年生まれ。京都在住。2016 年より演出家として活動。レトロニムのメンバー。人・場所・環境の現実的な関係に演劇を引用することを起点に、近年では青森県津軽地方での墓にまつわるフィールドワークや、精神医療や高齢者福祉施設でのリサーチをベースとした作品・プロジェクトに取り組んでいる。また、村川拓也作品やタニノクロウ作品に、俳優や演出助手としても参加。2024 年度 ACY アーティスト・フェロー。利賀演劇人コンクール 2018 優秀演出家賞。
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