タイの伝統舞踊コーンを学び、コンテンポラリーダンス界で活躍するピチェ・クランチェンを初めて知ったのは、フランスの振付家ジェローム・ベルの作品「ピチェ・クランチェンと私」だった。ベルリンの劇場HAUで上演されていたこの作品を、当時ニューヨークから見に来ていた私は、複雑な思いで舞台の存在に目を注いでいた。レクチャー・パフォーマンス[*1]という見慣れないヨーロッパのダンス形式の枠で、タイから来た伝統舞踊出身のピチェが、フランスの振付家相手に一人で奮闘している。有名なベルの作品を見にきた多くのヨーロッパの観客に囲まれ、舞台の彼も、観客の私も、どこか孤独でその場の多くの人から対象化されていたように思う。私は舞台上で一人闘うピチェに、自分を重ね合わせていた。日本から来てベルリンにいる、伝統の踊りを学んできた私を。
その10年後、さまざまな経緯を経て、ピチェと一緒に仕事をするようになった。ピチェの「ラーマの家」という作品の台湾でのリハーサルにドラマトゥルクとして招かれた私は、ピチェとの仕事に興奮しつつも、何をすればいいか途方に暮れていた。これまでリサーチのために、家族ぐるみで旅をしてきたピチェと台湾の振付家・ダンサー、ウーカン・チェンは関係がしっかりできているものの、台湾語もタイ語も話せず、ラーマーヤナの専門家でもない私は、そこにどう入っていけばいいのか。
そんな時、台湾での資料展示のために、ピチェがタイから運んできたコーンの仮面と舞台衣装を、マネキンに着せ始めた。コーンの衣装は金ピカの刺繍や飾りのために重く、着せるのに時間がかかる。サイズがなく着た人の体に合わせて針でしつけていくので、一度着たら簡単には脱ぎ着ができない。そんなことを言いながら、黙々と針仕事を始めるピチェに、私は反射的に手を貸していた。マネキンに重ねていく重い衣装を探し、背後からもち、高さを一定にしておさえる。相手が必要な時を見計らって、針を差し出す。言葉を介さなくても、ピチェの息遣いを見ていれば、次の衣装がどれになるか、どの衣装をどう針でしつけるかが、伝わってきた。それは、かつていた踊りの着付けの現場と同じ息遣いだった。マネキンは女性なのに、ピチェのもってきた衣装は男性用のラーマの衣装だよというツッコミを物ともせず、思った以上にざっくり衣装を着付けたピチェは、客席からは仕付け糸なんか見えないし、舞台衣装ってそういうものだよね、と私に呟いた。私はその時はじめて、彼の息遣いに寄り添えた気がしていた。
今回京都で上演するピチェの作品「No. 60」には、不思議なことに、同タイトルのカタログも作られている。初演に先駆けて発売されたこのカタログには、コーンのポーズを撮影した59の写真と彼の描いた筋肉や骨格の動きに関するドローイング、そして舞台にも使われるピチェのコーンの舞踊譜が掲載されている。カタログの冒頭に、ピチェはこう書いている。
タイの伝統舞踊もしくは古典舞踊は、一連の正式な美学的・文化的ルールに厳密に規定されている。このタイの伝統的パフォーマンス美学の固定化されたシステムの背後にある一つの理論的根拠は、タイの伝統舞踊は神々から由来するという信仰にある。ある特定の個人のみが、この美学的体系に変更や修正を加える権威がある。それは以下のものである。
1、国王
2、高位の師範
3、上演中にダンサーに憑依するダンスの神様
宗教儀式として始まった多くの舞踊は、その反復にともなって形が洗練し、専門的に従事する者を生み出していった。しかし、その舞踊には現代においても、神々や祖先、師匠への祈りが息づいており、その体系をむやみに変えることは彼らへの、そして形式への冒涜とみなされる。
ピチェが解体するタイ伝統舞踊の「テーパノン」は、タイ古典舞踊家になるために習得しなくてはいけない59個の主要なポーズと動き、いわば「型」から成り立っている。そこでは、力や重さ、方向、エネルギーといった動きの要素が譜面化されている。準備に16年もの時を費やしたというこの「No. 60」は、それらの型から新しい原理と形式を見つけ出そうというものである。
多くのコーンの伝統舞踊家は、構造の解体と改革を伴わない、これまでの型を組み替えたものを「新作」として発表するという。それらの現代的な作品は、タイ舞踊の枠組みを壊さずタイらしさを保守することで、コミュニティと共存する。そして、伝統が変化を伴わずに継承されたという信念に基づき、コミュニティを存続させていく。だがピチェが革新的な芸術家として特筆に値するのは、伝統舞踊の型の組み替えに終始するのではなく、その型の延長線上に構造を乗り越える、新しい形式を生み出すことである。そこには、両者を繋ぐ確実な接続があり、コーンの型を身につけ分析したからこその「新しさ」の深みと広がりがある。
ピチェは、米国研修中に振付家ウィリアム・フォーサイス(1949―)[*2]にも学んでいる。そこで、クラシックバレエによる身体の基礎を作り上げる方法を学ぶと共に、ダンサーに自ら考えるプロセスを持たせようとするフォーサイスの姿勢にも影響を受けている。ルドルフ・フォン・ラバン(1879―1958)[*3]が唱えた理論をコンテンポラリーダンスの振付に活用したのはフォーサイスであり、コーンの型からなる舞踊空間に新たな関数を加える「No. 60」にその影響を認めることもできるだろう。
ピチェには、コーンの伝統の型から距離をとることも必要だった。宮廷やタイのプロパガンダとしても機能したコーンが、タイの舞踊言語の根本ではないことに気づいたピチェは、タイ東北部や南部にその源流となる動きを探しにいく。そこで目にした憑依を伴うシャーマニズムの動きからヒントを得て、自分の思考や踊りの型から自由になることを試みたという。
そして、踊りの習得に何年もの時間がかかるコーンの訓練を、一般の人にもアクセスできるものにし、誰もが自分のアイデンティティに基づいて振り付けを作り出せるような、新しい動きの言語を作る――そうピチェに決断させたのは、タイの政治状況が近年急激に変化したことが要因であった。どんなに世界がかわろうとも、私たちは自由でなくてはいけない。こうしたダンスと権力が拮抗する歴史的対話のなかで、ピチェの「No.60」は生まれたのである。
踊る身体をつかさどる型は、写真のように固定化された形ではなく、その周辺にあるさまざまな情報を孕んだ身体ともいえる。それは音楽や衣装、装置、言葉との関係において空間に立ち現れる舞踊家の在り方でもある。そして舞台衣装の着付けは、そういった踊る身体を動きとともに形作る、実践に固有の技術が身体化したものだと思う。どう踊るかがわからないと、舞台衣装はうまく着付けられない。踊る身体を形作る構造を、動きの中で捉えようと、着付ける者は息を遣う。目に見える踊りの型とは異なる、もう一つの型。ピチェと共有できたのは、そういった伝統の息遣いであったようにも感じる。