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インタビュー後半は、新作に至る三作品のステップ、その発想の源や創作過程についての話題。つくることで核心に近づき、作品の根幹を発見する柳沼流クリエイションの片鱗が見え隠れするトークが展開する。
“人間らしさ”に働きかける作品にしたい。
──ここまでに試演してきた三作、それぞれの取り組みについても伺えますか?
柳沼 7月、仙台での『まほろばの景』にはやはり、東日本大震災被災地での創作ということが大きくありました。加えて、地元に伝わる神楽を見学させていただいたりもしたんですが、日常の暮らしと民話的世界、おとぎ話が近しくある土地柄だなと漠然と感じた。そんな実感から生まれた施設職員の福村という男が新作の主人公になるのですが、仙台の段階でも彼の現実と民話的な世界感が交錯するようなイメージはあって。そこが、長編でも広がる部分だと思います。
──確かに、福村が訪ねた姉弟が住む家は、民話に出てくる「迷い家」(まよいが。山中などで迷った者が行き着く幻の家)のようにも見えました。
柳沼 それと、民話や昔話のなかには教訓もオチもなく、何も解決しないまま唐突に終わったりする物語があるじゃないですか? あれは、天災など不条理な事象で人の生命が奪われたような時の、日本的対処法を描いたものじゃないかと僕は思うんです。神隠しなどにまつわる話が良い例で、「自然は人間の手でコントロールできるものではなく、あるがままに受け入れるしかない」という、人間の無力さを淡々と説く考え方がそこにはある。その発想が全編を貫くものとしてあり、そこで福村の現実が、次第に不条理な世界へと移行していく様を表現できたら、というのが現段階でのイメージです。現実からフィクションへ、できるだけ曖昧なまま持っていけたら、と。
──「曖昧」は、『音楽と物語』にも通じるキーワードに思えます。チェロ奏者・中川裕貴さんと阪本麻紀さん、澤雅展さん、二人の俳優による40分は、時間軸も語りの視点も不安定に移ろい続けるものでした。
柳沼 あの作品は、「リーディングの魅力とは何か」という疑問から始まっているんです。ただ戯曲を読んでも、それだけでは面白くない。「言葉と音に耳をそばだてている観客の想像力を、より刺激して膨らませるにはどうしたらいいのか。リーディングにしかできない表現とは何か?」という問いをまず立て、それに対して僕らが出した解答が『音楽と物語』というか。結果、普段舞台ではしない乱暴なまでの時間の飛躍や、過剰にポエティックな台詞を音楽に乗せることで成立させる、などということを色々と試すことができました。「演じる」というより「語り」に近い表現を、俳優たちに体験してもらえたのも、新作の布石として良かったと思っています。
──「民話」と「語り」。それらを経て、能楽の形式を使った『まほろばの密』に至る、というのは納得できる流れです。
柳沼 いや、こうして振り返りながら語るとひどく必然的な流れに見えますが、一作一作その時々に必死だっただけなんですけどね(笑)。『まほろばの密』も、最初から夢幻能の形式を借りるという発想があったわけではありません。あれは僕自身も俳優として出演した三人芝居なんですが、最初に劇中での持ち場の時間配分を考えたんですよ。「前半は僕が出て後半は庭ヶ月の角谷明子さんにバトンを渡し、澤は全編出ずっぱり」みたいな(笑)。その配分と三人の役割分担を、ちょうど複式夢幻能の構造にあてはめていくうちに、一気に発想が膨らんだ。そこに、前回からルールにしていた「曖昧」を適用し、「山に入った男がワケのわからん人物に出会い、それが実は死者で、生前の情念に耳をかたむける」という構造になっていきました。
──意図せぬ必然、という感じでしょうか。
柳沼 きれいに言えば、そうですね。 この前、「2030年までに自動化とロボットにより8億人が職を失う」というニュースを見たんです。反復作業は既に、どんどんロボットに取って代わられている。この先、これまで以上に私たちは“人間らしさとは何か?”を考えていかなければいけない段階に来ています。この作品がその命題について対話を生む存在になればと思っています。