土地や人の記憶に深く分け入って汲み取り、演劇的ドラマの核とする劇作家・演出家:柳沼昭徳。 2018年2月には、自身が率いる烏丸ストロークロックでの新作『まほろばの景』をロームシアター京都で上演する。三重や宮城などの劇集団から客演を招き、新作のための試演も府外といった、これまでの創作とは異なるスタンスで始まった新作。本格的な稽古が始まった12月初頭、クリエイションの展望について柳沼に話を聞いた。
強い身体をも振り回す不条理を創る。
──『まほろばの景』創作の一環として、俳優陣と登山されたそうですね。
柳沼 ええ、12月最初の週末に夜の東山を歩き、今日は客演の小濱昭博さん(仙台・短距離男道ミサイル)、小菅紘史 さん(三重・第七劇場)と愛宕山に登りました。烏丸ストロークロックではこれまでも、短編の上演を重ねて長編を立ち上げていくという手法で創作してきましたが、今回も既に三本、場所や形式が異なる作品を試演しています。そのうちの一作、10月に広島だけで上演した短編『まほろばの密』に、山中に分け入る描写がありますが、今作でも山というのは重要な要素となっているので俳優にも共有して欲しくて、フィールドワーク的な意味合いもありました。
──『まほろばの密』以外の公演は、7月に仙台で滞在制作した『まほろばの景』、9、10月に東京と京都それぞれで上演した『音楽と物語』で、登場人物が共通する部分はあるものの、全く異なる情景と物語が紡がれていました。
柳沼 試演は重ねていますが、これまでのように一つの物語を膨らませていくというよりも、モチーフを違う角度から見つめ直し、多角的に描く実験を重ねている感覚、とでも言えばいいでしょうか。障害を持つ弟と姉、弟が通う施設の男性職員という、ベースとなる登場人物が生み出された『まほろばの景』、弟の誕生と成長を死者である祖父が語る『音楽と物語』、そして『まほろばの密』では、最初の施設職員と思われる男性が、山中で死者の霊と出会い、その無念を聞いて浄化させるという複式夢幻能の形式を強く意識した作劇を行いました。
──三作ともに、彼岸や異界、死者との交感というようなイメージが通低してあります。
柳沼 確かに。登山だけでなく、深く自然の中に入っていくと都市生活の中では使わない、けれど人間が本来は持っているはずの感覚、五感以上のものを取り戻せるような気がしませんか? 今回の登山でも、山頂に京都市内を一望できるビュウポイントがあるんですが、その眺めを見ているうちに人の思考のおよばない視点を再認識できた。それも頭ではなく身体で感受したこととして。歩いていても、視界に入ってくる植物は高度によって変わりますし、踏み進む岩や土の質も刻々と変化していく。そんな、思考よりも体感を優位に置いた創作がしたいという欲求が、年々強くなってきています。 まだ始まったばかりですが稽古場でも、僕の中にあるイメージにキャストをはめるのではなく、個々のキャストの性質を知ることから始めています。これは、前作『凪の砦』から続くテーマだとは思っているのですが。
──前作までは、既存の社会システムや集団性について切り込んでいくスタンスに感じましたが、今回はさらに深い、そのおおもとにある「人間」そのものに迫るのですね。
柳沼 『凪の砦』も、その前の『国道、業火、背高泡立草』も“現代日本に蔓延する種々の歪、機能不全を起こしている社会システムを暴き立てる”という、社会派の作品として観ていただくことが多く、それはそれでありがたくはあるのですが、作品の先にあるもの、観劇後に観た人の中での残り方にひっかかりがあって。折角、多くの人の知恵と力を借りて作品をつくるのであれば、その結果につくり手も観客も、何か上向きな、前に一歩でも進めるようなものを持って帰れたほうがいいんじゃないかと思うようになったんですよね。その第一歩が“頭と身体を合致させる”ということで、結果無理のない、理に叶った表現が言葉にしろ動きにしろ、自ずと生まれるような環境になっていくのではないかと思っているのですが。 俳優とダンサーの混成チームで、はじめましての方も多い今回ですが、蓋を開けてみたら嬉しいことに人のみならず物事の理を求めることに抵抗なく入れる方ばかりでした。
──ダンサーである松尾恵美さんはもちろんですが、短距離男道ミサイルと第七劇場も作風こそ違いますが、身体への意識を強く持った芝居づくりをしている劇集団。図らずも最高のキャストがそろった、ということですね。
柳沼 それを活かす立場に自分がいることにはプレッシャーも感じますが、毎日稽古が楽しくて仕方ありません。彼らの強い身体が振り回され、観ている人も否応なく同じ混沌に体感として巻き込まれてしまうような不条理を、劇中に起こしたい。演劇の約束事や段取りを軽々と超えてしまうようなことを、と。そんなイメージが、今の段階からあります。