古典を現代で語り継ぐことは、古典と現代をどのように接続させるかという問いにつながる。上方落語を中心に専業落語作家として40年以上にわたり新作落語を生み出し続け、近年は狂言や文楽、歌舞伎の台本、古典落語の改作も手掛ける小佐田定雄と、古典芸能への深い愛と造詣をベースに、現代の歌舞伎演目上演の可能性を発信する劇団・木ノ下歌舞伎を主宰する木ノ下裕一の対話から、現代において古典作品を扱う創作の実践者たちのリアルに迫る。
◉ 古典と今をどうつなげるか
──古典芸能の世界では、古典と新作という分類があります。小佐田さんは落語作家として書き下ろしの新作をつくるときに、古典作品を意識されていますか?
小佐田―まず、ひとつのシーンだけポーンと思いつくんです。「貧乏神」という話だったら、貧乏神が現れて、それにどうリアクションするかを考える。まず驚いてから「金貸してくれへんか」と頼むとか。それをメインに置いて、ここにいくためにどう話をつなげるか、出会った後は貧乏神はどうなるか、をこしらえる。
その次にいつの時代にするかを考えるんですが、そこでいきなり演者を思い浮かべるんですよ。たとえば枝雀師匠だったら、現代も過去もいけるな、とか。落語っていうのは、演劇と違って、扇子と手ぬぐいだけで具体的な道具が一切無いので、どこだって行ける。だからできるだけ時代をぼやかして、〝いまではないちょっと昔〞っていう時代にして、いつでもどこでもだれでもいい、というところで物語をつくる。こういうのを擬ぎ 古典っていいます。
木ノ下―もう既にこの時点でとっても勉強になります。僕の場合は、物語を江戸時代のままにするか、設定を現代に移し替えるのか、まず先に決めるのですが、小佐田先生の場合はそれが後なんですね。物語の核を成立させるための設定として、昔かいまかを決める。
小佐田―いまと昔のあいだには演者がいるんですよ。落語は時代を自由に行き来できる表現だから、手掛かりを与えないんです。昭和とか平成とか言わなくても、一言「スマホ取ってくれ」で現代になるから。
木ノ下―省略できるんですね。その物語が成立する時代設定を、お客さんが自分で見つけてくれるように見えないところをどう想像させるか。
小佐田―米朝師匠の教えで、「一言だけまことしやかなこと言え」ってのがあってね。ときどききゅっとひとつだけほんまのこと言うと、世界がばらけないんです。
木ノ下―補綴(編集部注:芝居の上演にあたり既存の戯曲をカットしたり書き加えたりする再編集作業)の極意ですよね。
小佐田―基本的にわれわれは噓をつくわけやから。具体的に書きすぎると、バレるからね。「いまのどこそこの建物のあたりに昔、奉行所がありまして」とか、一瞬のリアルだけでビッと締めるんですよ。
私がつくっているのは創作落語ではなく「新作落語」って言うんですよ。私は別に創作はしてませんからね。僕は昔からの古典のテクニックを使いながら新規の物語をつくってるだけの、技術者、エンジニアなんですよ。つまりものがでてきたら、落語の言い方にはめ込む。歌舞伎なら歌舞伎の枠、文楽なら文楽の形式の枠にはめ込んでいるだけなんです。
木ノ下さんと僕の違いは、木ノ下さんは形式ももちろんちゃんとやるけど、その後でその枠から外すでしょう。木ノ下さんの芝居を観ると、歌舞伎ってこういうもんやったんやって謎が解けていくんです。『心中天の網島』でも、おさんが何でそこまで治兵衛と小春に遠慮するのかいまやったら考えられへんけど、原作にない「幼馴染」って裏の設定をつけるだけで、(編集部注:木ノ下歌舞伎が2015年に初演した『心中天の網島』では、作中の治兵衛とおさんの間柄について、原作で「いとこ同士」であったところを「幼馴染」という設定で描いた)ものすごい説得力が上がって急に現代的になる。衣装もいまっぽくして。僕と木ノ下さんはやってることは逆やけど、いまとどうつながるかは両方で考えてることやと思う。
──木ノ下さんは以前、古典との向き合い方として「他者として原作に向き合った時にどうしても解せなかった部分というのが、翻って創作のキーになっている」とおっしゃっていました。より現代を生きている方としてのアプローチなのかなと感じます。
木ノ下―「わからない」って2種類あって。単純に言葉が難しいとか、説明を加えれば済む「わからない」と、もうひとつは、説明されれば一応は理解できるけど、いまの時代では感覚的にピンとこないなっていう「わからない」。価値観とか倫理観とか死生観の違いからくる「わからない」です。でも、そこがわかったら古典はめちゃくちゃ面白い。後者の、いまもう共有できなくなっている「わからない」に、どうすればお客さんがついてきてもらえるか。そのために、前者の「わからない」をできるだけフラットにする。現代語に置き換えたり衣装を変えたりするのもそのためです。で、いつの間にか、後者の「わからない」に到達してもらう。高い山に登ってもらうのに、ところどころロープウェイをつけたり、道を整備したりするのに似てます。でも、名所の岩場とか、景色のいい古道は道が悪くてもそのまま残す。その時代の同じような感覚になってもらう、演劇として豊かにわかってもらうためです。
小佐田―だから、つい観ちゃうんですよ。古典って言ってもね、落語の古典というのは、クラシックであり、スタンダード。普遍的で共感する部分が古典になる。落語は自由自在だからそれでいけたけど、お芝居の古典は、もう共感できないものいっぱいあるよね。
木ノ下―そうですよね。
小佐田―だから(芝居は)それを足したり引いたりする。一方われわれ落語は共感できないものは引いたらええのやから。
木ノ下―なるほど。そこは随分ちがいますね。
小佐田―歌舞伎とか文楽とか、もっとわかりやすくやってはるのもあるけど、どこまで古典をいじるか。
木ノ下―古典をいじるときの倫理ってあるんですよね。ここまでやると古典じゃなくなる、古典の意味がなくなるっていう。
小佐田―そう。それが一番言われるのは「先代はそうはやってなかった」っていう言い方。
◉ 異物を残しておく
木ノ下―先生の著書で、「落語大阪弁講座」っていう素晴らしい本があって。落語に出てくるちょっとしたフレーズの意味とニュアンスを、エッセイで綴っている本です。それは辞書でもあって、アクセントがついていたり、使用上の注意とかが書かれていたりもする。この本を僕は、木ノ下歌舞伎を旗上げして補綴を始めてすぐくらいに手にしたんですよ。それでノックアウトされて。「ずつない」(編集部注:なすすべ、手だてがないこと)って言葉とか、大阪弁の、独特のニュアンスと文化がつまってるんですよ。その言葉でしか表現できない身体的、心情的な感覚がある。そういう古典の言葉を自分たちで引き受けて、あえて現代語に変えるという。
小佐田―「変えてええんか?」とかね。
木ノ下―変えていいのか、変えて伝わるのかって。変える限りは、原文以上のものを獲得しないと意味がないのではとつねに問う。でも変えるには変えるだけの効果を、わかりやすくなっただけではないちがうものを獲得できるから、私はあえて変えておりますっていう風にしなければいけないということを、この本で教わりました。
小佐田―わからせ方って難しいんですよ。甘くしすぎて、「坊ちゃんわかりますか」っていう感じになるとダメで。古典芸能もわかってもらおうと、新しい試みをいろいろやってるけど、それはあくまでも入口であって、根本には動かないもんがないと絶対あかんと思うよ。これだけは誰が何といっても変えませんっていうのがないと。そのうえで、「変えたけど伝わる」ってことがないとあかんねん。
木ノ下―全部バリアフリーにしないってことですよね。異物を残しておく。
小佐田―あまりわかりやすくしてしまうとご覧になる人が舐めてしまうから。ちゃんと聞かんでも、教えてもらえて、解説してもらえるとなると、みんな考えないようになる。
──探求させるおもしろさを残しておく、そういう態度が芸能として必要だと。
小佐田―絶対いると思う。それがない、すぐわかる芸能はすぐ忘れられる。わかれへんなと思って3、4回行ってわかったときに、めちゃめちゃ面白いってなるんです。やってる動きの中の一瞬に、こういう芝居かって発見したら自分のものになる。歌舞伎や文楽のイヤホンガイドも、入口にはええんやけど、自転車の補助輪みたいに、いつか外して自分で観なあかんねん。そうなっていけば、自分の目で探して発見して感動するようになるわけやから、古典もまた違って見えてくる。古典って奥があるから、少々発見してもまだ奥になんぼでもある。
木ノ下―いま僕らが言っているわからないとか異物というのは、長い時間の中でそうなってしまったものですものね。先生がつくっているのはいまの落語なんで、このあと作品が上演されていくにつれて、異物が出てくる可能性がある。
小佐田―もういま現に出てきてます。現代を舞台にして書いてるものはとくに早い。例えば、列車の窓が開くとか、彼女の家の電話にかけたらお父さんが出てくるとか、いまはあれへん。
木ノ下―その後それが古典になる。そうなると、後の人の責任ですよね。それをやる方が、異物を情緒と捉えて残すか、バリアフリーにしてしまうか。やっぱりその人なりの倫理が必要になってくる。
◉ 残すための〈型〉と〈形式〉
小佐田―古典の普遍性という点でいうと、もうひとつはいろんな人が演るということ。当たり芸って、イコール古典ではないかもしれないね。落語だと、誰も記録していなくていまではあらすじがわからない噺とかがあって。あらすじを聞いても、どこが面白いかわからない。歌舞伎もいっぱい作品が残っているけど、ひょっとしたら本当に大当たりした芝居って一代で滅んでる気がするねん。
「俺やったらこうするで」とか、次の時代の人がなにかプラスしたくなるような、ちょっと薄いものが古典になったのかもしれない。歌舞伎なんかめちゃめちゃ当たり役にした人がやったら、「あの人の十八番やからやめとこ」ってなるやんか。
木ノ下―現にありますよ。この人しかやらなかった演目が、すごいメジャーだったのに伝承が途絶えるって。パーソナリティに寄ってしまうと、後の人が伝承しにくくなる。「京鹿子娘道成寺」は名曲といわれていますが、初演者の初代中村富十郎は振付をあえて簡単にしたっていう芸談が残っています。贔屓の人が「富十郎さんはもっとできるのに、なぜこんな簡単な振りにしたんですか」って聞いたら、「簡単にしないと残らないから」と言ったと。
小佐田―面白いなあ。
木ノ下―富十郎がきっと、あとにもいろんな人にやってほしかったし、自分がいなくなっても演目が成長していくことを考えたんでしょうね。
二世茂山千之丞さんの著書『狂言じゃ、狂言じゃ!』の中で、「狂言を野垂れ死にさせないために」っていう章があるんですけど。狂言の新作を作るときには、今までの型にはなかったものを絶対1個はいれないと、新作をやっても仕方がないということが書いてあって、その通りだと思ったんです。だから現代でもつくるんであって。
小佐田―一方で古典の形式にはいる嬉しさみたいなものもあるよね。僕はわからない言葉は使いたくないけれど、ギリギリわかる歌舞伎らしい、文楽らしい言葉を使いたいと心がけてる。
──木ノ下歌舞伎さんは、「完コピ稽古」が有名ですね。稽古の前半に、原作のオーソドックスな歌舞伎をできる限りまねてみるという。
木ノ下―1回全部の歌舞伎を俳優に移すんですよ。
小佐田―これ大事やな。やってみたら意味がわかるもんな。なんでここでこう動くかって。
木ノ下―本当に型ってすごいもので、全部に意味があるんですよね。俳優に1回やってみてもらって、今度はそれを現代口調でやってみる。言い回しを現代でやってみても、やっぱりここで手ぬぐいを取りたくなったり、前掛けを外したくなるという生理がある。それがまったく歌舞伎と同じだと俳優はびっくりしてましたね。
いまはそれが形式、型にみえるけれど、実は型ができるときは1個1個のリアルがあるんですよね。それをぐっと形式にしたのが型で、いわば瞬間冷凍で保存している。それを解凍すれば中にはちゃんと心情があって、誰がやっても最低限のことはできるようになってるんですよ。
小佐田―そうそうそう。型さえやれば形式や動きだけではできるようになってくる。
木ノ下―そこから込めていく、もう1回解凍していくっていう作業があるんですよね。
小佐田―そういう意味で昔の形が残っているというのはあるな。能や狂言でも。子どものときから習ってるから最初は理由がわからんまま型通りに演じてるだけなんやけど、お客さんには一応はちゃんと伝わってるということがあると思う。
◉ 歴史が背負ってきた文化を保存する
木ノ下―話は変わりますが、古くなってできなくなっている古典もありますが、いまの人権感覚だと上演しづらいという演目もありますよね。歌舞伎でも落語でも。たとえば「卯の日参り」とか「代書屋」の後半部分とか。とくに前者はらい病、いまでいうハンセン病を扱っている噺。そういうものを、何かに変えるというのはなかなか難しいと思うんですが、そのあたりはどうお考えですか。
小佐田―それをそのままやったとしてお客さんが快感として捉えるかどうかやな。時代に合わない、不快と思われるものは変えたほうがいい。
木ノ下―かたやお客さんが快感か不快かという点では、どんどん厳しくなっていますよね。やる方も観る方もどんどん代替わりしていくから、動かざるを得ない。
小佐田―それこそいっぱい言い訳して上演しないといけないね。
木ノ下―そこで現代に合わせてチューニングする作業がやっぱり必要で、それをわれわれがやっているということなのかもしれませんね。
──補助線を引くようなイメージなんでしょうか。
木ノ下―そうですね。現代の人権意識と擦り合わせながら、らい病をちゃんと扱う。負の側面にもフタをせず、それもひとつの歴史の痕跡なんだということがすっと入ってくるものにしたい。
歴史は、なかったことにはできないじゃないですか。病に対する差別は実際にあって、苦しんでいた人たちがいたってことも無視できない。と同時に、説経節などではらい病患者が復活していく物語がたくさん残っている。フィクションに希望を託した人もいる。病が背負ってきたいろんな文化があるから、なにかの形で問わないと、どんどん文化が先細りしていくし、忘れられてしまう。
小佐田―忘れることは一番怖いことやね。
木ノ下―最近、いいろんなことがなかったことにされがちじゃないですか。ついこのあいだの戦争のことですら。ある種そういうことを保存するのが文化芸術で。演劇、芸能、文学にはそういうのがたくさん残っていて、それを保存していく役割も古典にはありますからね。
小佐田―人の心の動きって永遠で。解決の仕方はいまどきでないかもしれないけど、こんなことがあったと訴えかけないといけないよね。
──木ノ下歌舞伎は公演の際に、作品のテーマへの理解や解釈を深めるためのガイドブックを発行したり、関連講座を開いたりもされています。古典を再現するということと別のおもしろさを、公演と合わせて提示するということも活動の軸のひとつですよね。
小佐田―その時代のことがわかることで、上演された作品の見方が変わるもんね。目の前でおきているこれがどれだけ大事なことなのか、この行動がどれだけ思い切ったことのかというのが、いま演じられている古典の舞台だけを見てもわからない。
木ノ下―価値観、世界観がちがいますからね。
小佐田―古典なんて層が半端なく厚いから、知ってもなんぼでも出てくるから。
木ノ下―京都会館、いまのロームシアター京都で60年以上続いている「市民寄席」では、先生がプログラムの解説を長らく書かれていますね。短いけれど、一つひとつの解説に大事な情報が全部詰まってる。
小佐田―できるだけちがうことを書こうと心がけてる。
木ノ下―毎回変えてますよね。演者のほうにシフトしたり、ネタのほうにシフトしたり。素晴らしいアーカイブでもあるし、ひとつの演目でも切り口が変わればこうも変わるっていう例ですよね。あと市民寄席は、自治体、行政と一緒にやるということも先駆的でしたね。
小佐田―京都は文化の町っていう誇りがあるねん。市民寄席をやることになって「まとまらなあかんさかい協会を創ろ」と上方落語協会ができたという話も聞いたことがある。どこの国でも町でも文化を大事にしているところはやっぱり違うよね、そこでお里が知れるというか。いまは、こういうものを楽しくやる余裕がなくなってきている。思い詰めてる町ってあるねん。
木ノ下―思い詰めている世の中で、古典が思い詰めないようにさせてるんですよね。歌舞伎も文楽も昔はこんなんでしたよと見せてくれる。いまが特別ではない、かつてはそんなこともあったけれど乗り越えてきた歴史もあるとか、視野を広げるという意味では、落語と同じ効果が歌舞伎や文楽にもあるなって思うんですよね。
小佐田―そうやな。芝居でも幕切れに拍子木がチョンと入ると、それまで暗かった照明がパッと明るくなるでしょう。全部噓でした、はい解放って感じ。あれでホッとして帰るんやんな。夢から覚める瞬間。
木ノ下―古典のカタルシスですよね。夢から覚めさせることで、思い詰めないようにさせてるんですよ、古典って。だからこそいま、古典が必要なんだって思うんです。
初出:機関誌ASSEMBLY第4号(2019年10月27日発行)