
Photo by Modestas Endriuška
私はむかしドイツに住んでいたのですが、スーパーや薬局などで買い物を終えると、レジにいる店員さんがほぼ例外なくSchönen Tag noch!(引き続きよい1日を!)と言ってくれます。それに対してこちらもDanke, gleichfalls!(ありがとう、あなたも!)と返答します。ちなみに金曜日の午後や土曜日は、この挨拶がSchönes Wochenende!(よい週末を!)に変わります。(ドイツには閉店法という法律があり、日曜日と祝日はスーパーを含むあらゆる店舗を休みにしなくてはいけないのです)
今年9月25日・26日にリトアニアからロームシアター京都にやってくる『HAVE A GOOD DAY!』の作品タイトルは、スーパーでのこのような挨拶から取られています。(日本では買い物をしても、あまりこういう挨拶をしないので、日本語には翻訳しづらいタイトルです)この作品には「10人のレジ係、スーパーマーケットの音、ピアノのためのオペラ」という副題がついています。ヴァイヴァ・グライニテ(作家兼詩人)、リナ・ラペリテ(作曲家兼ミュージシャン)、ルギーレ・バルズジュカイテ(演出家兼舞台美術家)の女性3人組は、セルフレジやコード決済がまだそれほど浸透していなかった2013年に、この作品を「オペラ」として作りました。しかしこの作品は『カルメン』のように主役となるソリストが出演する豪華絢爛なオペラではありません。一般的にイメージする「オペラ」とはやや異なるので、今回の日本公演では「現代オペラパフォーマンス」として紹介されます。作品理解の解像度を少しだけ上げるために、この作品の特徴を「フラット」「ミニマル」「日常」という3つのキーワードから説明してみます。
レジ係を演じる10名の出演者は皆女性で、年代も様々です。(ドキュメンタリー作品ではないので、出演者は実際の店員というわけではありません)具体的な役名は与えられず「いつも品物を落としてしまう不器用な新人」「イギリスに住む息子とスカイプで話すために、シフトが終わるのが待ちきれない中年女性」「芸術系の学位を持つ若い女性」といった役柄がそれぞれに与えられています。出演者のなかに序列はなく、10人がフラットな関係です。「ポストドラマ演劇」という考え方を提唱した演劇学者のハンス=ティース・レーマンは、その原則の1つ目として「演劇手段の脱序列化」を挙げていますが、『HAVE A GOOD DAY!』は作品のコンセプトにおいて、この脱序列化=フラットさが実現されています。その特徴は、同じ椅子が舞台上にずらりと並列されている舞台美術のデザインにも現れています。

Photo by Modestas Endriuška
椅子に座った10人のレジ係は商品を読み取るバーコードリーダーを手に持っています。上演がはじまると彼女たちは手に持っているバーコードを読み取り、そのリーダーの音が会場内にピコピコと鳴り響きます。すると1人のレジ係が子守歌を歌い始め、続いて10名のレジ係全員での「HAVE A GOOD DAY!」コーラスとなります。(指揮者がいないのに、息ピッタリで歌われるコーラスには注目です!)そしてそれぞれのアリアへと続いていきます。本作をニューヨークで観劇した音楽批評家のアレックス・ロスは、その音楽を「初期のフィリップ・グラスのような感傷を排したミニマリズムと、民謡風のメロディの気配を兼ね備えている」と評しています。ミニマル・ミュージックとは短いフレーズが反復する機械的なスタイルの音楽のことですが、『HAVE A GOOD DAY!』はこのミニマルさとオペラの形式が融合した、音楽的にも珍しい作品です。スーパーの店員が日々抱える悩みやルーティンを表現するときに、ミニマルさは恰好の音楽形式であるといえます。
レジ係が歌うアリアの中には「新人のアリア」や「シングルマザーのアリア」と題されたものがあります。演劇やオペラにおいてコーラス(かつてはコロスと呼ばれていました)は観客を圧倒する強い声として用いられていましたが、現代的な作品ではむしろ社会的に苦しい立場にいる弱き者たちの声の表現としても使われます。この作品の中に大きなストーリーは存在せず、10名のレジ係が語る内容はどれも個人的で日常的なものです。個人が抱える小さな日常がそのまま呈示される作品です。
いまや私たちの日々の生活はバーコードで溢れています。買い物で会計するときも、劇場や映画館に入場するときも、そこにはバーコードがあります。その結果、店員の方との会話は生まれづらくなり、人間同士のコミュニケーションは少しずつ無くなっていきます。圧倒的な作品を観た後は、劇場から外に出たときに日常の景色が変わって見えてしまうようなことが起こりますが、『HAVE A GOOD DAY!』を観た後の観客に、そのような大胆な変化は起きないかもしれません。このフラットでミニマルな日常のオペラは、私たちが失いがちなコミュニケーションの大切さを思い出させてくれるでしょう。もしかすると観劇した後のあなたは、地元のスーパーのレジで「ありがとう、あなたも良い一日を!」と返答しているかもしれません。