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新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室 2021「ドン・パスクワーレ」作品解説

ドニゼッティと「ドン・パスクワーレ」

文:井内美香
2021.10.15 UP

同時に二つのオペラを作曲すると言われたドニゼッティ

ガエターノ・ドニゼッティは『魔王』などを書いたシューベルトと同じ1797年生まれ。生涯に70以上のオペラを作曲しました。ドニゼッティは仕事が速いことで知られており、左右の手にそれぞれペンを持って二つのオペラを同時に作曲しているイラストが残されています。なぜそんなに速く曲が書けたのかというと、実際は作曲の腕が良かったから。ドニゼッティは北イタリアのベルガモという町の貧しい家庭に生まれましたが、この町に住んでいたドイツ人作曲家マイールが、幼い頃から音楽の才能があったドニゼッティに無償で音楽教育をほどこしました。それゆえドニゼッティは、イタリア人の特徴であるメロディ作りの才能と、ドイツのオーケストラ音楽を書くテクニックをあわせ持つ超一流の作曲家となったのです。作曲家として大成したドニゼッティでしたが、私生活はかなりの不幸に見舞われました。幼い三人の子供たちと妻を病気でなくし、そのあとは生涯独身でした。後半生は病気に苦しみ、50歳で亡くなっています。

 

 

ドン・パスクワーレが結婚を決意した理由

《ドン・パスクワーレ》はドニゼッティが45歳の時に書いたオペラです。物語の舞台はローマ。ドン・パスクワーレは仕事人間でがむしゃらに働き立派な財産を築いたものの、結婚の機会もないまま70歳を越えてしまいました。同居している甥のエルネストは今時の若者で、ぬくぬくと何不自由ない暮らしをしていています。ドン・パスクワーレは悪い人ではありません。そのうちに甥を良家の子女と結婚させ、自分の財産を相続させてやろうと思っていたのです。ところが最近その考えを改めなければならなくなりました。エルネストがノリーナという、若くて貧乏なバツイチ美女と恋に落ちてしまったからです。ドン・パスクワーレは甥に女と別れるよう説教しますが、彼が耳を貸さないのに怒り、考えを変えて自分が結婚することに決めます。「わしはまだまだ健康だし、子作りだって夢じゃないぞ」と誰か花嫁候補がいないかと探してみると、主治医のマラテスタ先生が彼の妹を紹介してくれることに。先生の妹なら身元も確かだし、願ってもいない縁談です。でも、ドン・パスクワーレは知りません。実はマラテスタはエルネストの親友だったのです。これはマラテスタがドン・パスクワーレに「結婚なんてこりごりだ」と思わせるための罠でした。

ドン・パスクワーレが望んだ妻の条件はどんなものだったのでしょうか?マラテスタによれば彼の妹は(ソフローニャという名前をつけていますが、実はノリーナが演じる偽の妹です。ドン・パスクワーレはノリーナと会ったことはありませんでした)、修道院を出たばかりの乙女で、無垢で無邪気。品が良くて、愛らしくて、慎ましい女性です。ソフローニャの年齢は不明ですが、修道院を出たばかりということでおそらく18歳位だと思われます。当時の良家の子女は修道院で学ぶことが多く、要はミッション系全寮制女子高校を卒業したばかりの若い娘、といったところです。

ドン・パスクワーレはマラテスタ先生が連れてきたソフローニャの美しさに虜になり、彼女との結婚を決めます。ドン・パスクワーレは彼のお金を浪費しない、言うことはなんでも「はい、はい」ときいてくれる、従順な若い娘が欲しかったのです。だってそのほうが楽ですから。その意味でもソフローニャはドン・パスクワーレの理想通りの女性に思えました。

バツイチ美女ノリーナはどのような女性なのか?

ここで話をヒロインのノリーナに移したいと思います。ノリーナがバツイチになった事情はオペラの中では説明されていませんが、台本の人物紹介によれば彼女は「気が短くて、自分のやり方に反対されると我慢ができない性格。でも、嘘のない愛情深い女性」だそうです。のんびり屋のエルネストにはぴったりのしっかり者の女性なのでしょう。登場するときに歌う自己紹介のアリア(=歌の聴かせどころ)にも、彼女の性格がよく現れています。舞台に登場する彼女は読書をしています。読んでいるのは騎士物語、リッカルドという騎士がある美女の眼差しに心を射抜かれて愛を誓う、というもの。ノリーナは笑いながら本を投げ出して、「この魔法なら私だって知っているわ。思わせぶりの眼差しや嘘の涙で、男の心に火をつける1000の方法をね」と歌います。マラテスタは彼女に自分の計画を話し、ノリーナは愛するエルネストのためにソフローニャに化けてドン・パスクワーレ邸に乗り込むことを承知します。

2019年新国立劇場公演より/撮影:寺司正彦

妻に虐待された夫ドン・パスクワーレの悲哀

ノリーナが変装したおとなしくて可愛いソフローニャに大喜びのドン・パスクワーレ。ところが(偽りの)結婚契約書にサインした途端、新妻は豹変します。感動のあまり花嫁を抱きしめようとするドン・パスクワーレに「まずは相手に聞くのが礼儀でしょ?」「許可していただけますか?」「だめよ!」と言い放ち、その後も言いたい放題、やりたい放題のソフローニャ。上から目線で召使いたちを呼びつけて次々に命令を下します。妻のあまりの豹変ぶりにドン・パスクワーレは茫然自失となります。夜になるとソフローニャは劇場に行くためのゴージャスなドレスに着替えて現れます。「娯楽のために劇場に行ってくるわ」。ついに怒りが爆発したドン・パスクワーレ。「この家から絶対出さないぞ!」と叫ぶ夫に対し、ソフローニャは「口で言っても分からないならこれをどうぞ」と彼の頬に平手打ちをかまします。これまで長い人生、誰かに手を挙げられたことなどなかったドン・パスクワーレは涙目になって「ああ、ドン・パスクワーレ、お前はもう終わりだ…」と嘆きます。ノリーナもさすがに可哀想になりますが、これも計画のためだと演技を続けます。

ここまでくると少し、ドン・パスクワーレが可哀想になってきます。もともと、年寄りが若い女性と結婚しようとして、彼女と彼女の恋人の知恵でこらしめられるというストーリーは、イタリアの伝統的な演劇(コメディア・デラルテ)の流れを汲むポピュラーなものでした。ドニゼッティは当時、もうかなり時代遅れになっていたこの古い設定を使いながら、ドン・パスクワーレの悲哀をリアルに描いています。これは以前には無かった表現でした。例えばロッシーニのオペラ《セビリアの理髪師》には似たようなシチュエーションが描かれていますが、若いロジーナと無理矢理結婚しようとするドン・バルトロに同情する感情は湧いてきません。当時の女性が置かれていた社会的な地位を考えれば、ドン・パスクワーレが若い女性と結婚しようとするのは責められても仕方がないことですが、一時の夢を見てしまったドン・パスクワーレの悲しみには同情がわいてきます。それはやはりドニゼッティの音楽の力が大きいといえるでしょう。

2019年新国立劇場公演より/撮影:寺司正彦

 

  • 井内美香 Mika Inouchi

    オペラに魅せられ、スカラ座に通うためにイタリアに移住。ミラノで20年以上の間、イタリア語の通訳と翻訳、オペラに関する執筆、オペラ来日公演コーディネイトなどの仕事に携わる。2012年より東京在住。オペラ・キュレーターとして、オペラの魅力を広める活動を行なっている。最近の癒しはYouTubeで猫やパンダの動画を見ること。

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