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#公演評#舞踊#2024年度

ラシッド・ウランダン『Corps extrêmes——身体の極限で』公演評

超未来社会の「人間の美しい心」を可視化したパフォーマンス

文:玉木正之(スポーツ文化評論家)
2025.2.27 UP

撮影:麥生田兵吾(umiak)

 第一印象は、不思議な舞台の不思議なパフォーマンスと言うほかなかった。
 舞台に登場したのはダンサーと言うより溌剌たる身体を有する「若者たち」と呼ぶにふさわしい十数人の男女。彼らと彼女ら「若者たち」は、誰もがジーンズか短パンに、Tシャツやタンクトップ、またはカジュアルなシャツ姿。そんな何処にでもいる現代の「若者たち」が、思いっ切り跳ね回り、飛び回り、全力で走り回り、踊り回る。
 しかし、ほとんど音が響かない。
 バックにプログレッシヴ・ロックの激しいサウンドが響く。が、「若者たち」の足音や息づかいが聞こえないのは、BGMのせいではなかった。サウンドがフェイドアウトしても、「若者たち」の足音は、さらさらさらと観客の耳に達するだけ。息づかいはまったく聞こえない。だから、さらさらさらという細やかな足音が、余計に静けさを増す。
 「若者」が別の「若者」の肩の上に軽々と跳びあがる。あるいはスポーツ競技のボルダリングで用いられるような舞台奥の巨大な壁に突き出した小さな岩々の突起に飛びつく。そこから思い切りジャンプしたあとも音は響かず、飛び降りた「若者」は、舞台上で何事もなかったかのように、クルリと素早く前転して走り去る。
 壁の突起を伝って上のほうへと駈けへ登り、上から腕を伸ばす別の「若者」に向かってアクロバティックに跳びつき、腕をつかんで大きくスイングされたあと、仲間の「若者たち」の腕のなかに跳び降り、さらに投げ上げられて高々と飛び上がり、飛び降りたときも、それらの行為は、すべて無音の静謐な空間で淡々と繰り広げられた。
 われわれ観客は、「若者たち」の身体の、淀みなく流れる動きに、危険も感じなければ、力強さも、野生味も感じることなく、激しくも静かな動きのなかに、時間だけが流れ去るのを、ただ茫然と視覚だけで感じるほかない。
 舞台の最上方、天井に近いところに張られた一本のロープの上を、バランスを取りながらゆっくりと歩くハイライナー(高所での綱渡り)の「若者」も、スペクタクルの派手さやスリルは微塵もなく、まるで禅僧が瞑想に耽っているようにすっくと背筋を伸ばして静かに歩き、ロープの上から静謐な冷気を下の空間に広げ、その冷気の伝播で、他の「若者たち」と静かな交流を続けている。 

撮影:麥生田兵吾(umiak)

 文字で表すことが困難な、そのようなパフォーマンスを、じっと見詰め続けながら、私の脳裏には様々な「過去の言葉」が去来した。
 まずは三島由紀夫の言葉。《どうも今日、われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある》(『美しきもの』/『三島由紀夫評論全集』新潮社より)
 この言葉が思い出されたのは、ウランダンが振り付けた「若者たち」の動きが「美しい」とはまったく思えなかったからだ。健康的であり機能的であり、そこに観客としての私は驚愕もし、瞠目もしたが、美しいとは思えない。それは多分《危険な性質》が、微塵も感じられなかったからではないかとも思われた。
 さらに思い出されたのはモーリス・ベジャールの言葉。《肉体! それは今世紀の最も重要な発見である。二十世紀は、自分の肉体を自ら示すことを決意した世紀である》『自伝ー他者の人生の中での一瞬』前田允・訳/劇書房より)
 19世紀の哲学者ニーチェが、「肉体に対する精神の優越」というキリスト教的精神論を打ち破り、「肉体も一つの大きな理性である」と宣言した言葉を受け、ベジャールがモダンバレエで実践した「肉体表現」のマニフェストである。彼の率いた「20世紀バレエ団」では、男性は常に裸体を曝し、女性は裸体以上に肉体のフォルムを露わに示すレオタードで全身を覆い、肉体そのもので言葉に優るものを表現した。
 「肉体表現」は、演劇の世界にも波及した。英国のロイヤル・シェイクスピア劇団ピーター・ブルック演出のシェイクスピア『夏の夜の夢』の来日公演(1972年)を観たときのショックは、今も忘れられない。役者たちは跳びはね、ぶつかり合い、地転・側転・バック転を繰り返し、さらに空中ブランコの曲乗りや皿回しまで演じて見せ、「サーカス・シェイクスピア」とも評された。
 「肉体表現」はオペラの舞台にまで浸透し、奇才と言われた演出家ハリー・クプファーがワーグナーの楽劇の殿堂バイロイト祝祭劇場で演出した『ニーベルンクの指環』(1988年)では、歌手に何度も全力疾走やジャンプを要求し、「オリンピック・ワーグナー」と揶揄されたりもした。
 唐十郎の状況劇場紅テントの舞台や、暗黒舞踏や山海塾などの舞踊パフォーマンス、さらに三代目市川猿之助が、スーパー歌舞伎の公演(1986年)や『義経千本桜』の舞台で見せた激しい立ち回り、早変わり、宙乗りなどの派手なパフォーマンスで、歌舞伎の身体性と大衆性を表現したのも、人間の表現における世界的な身体性の獲得という流れに沿ったものと思えた。
 ベジャールの主張した「肉体表現」は、20世紀の舞台芸術のメインストリームとなったのだ。その意味では、ウランダンの振り付けは、それら20世紀の「身体表現」の延長線上に生まれたものと言えるようにも思われた。
 ただし、ウランダンの「身体表現」では「肉体表現」は影を潜め、ジーンズとカジュアル・シャツ姿の身体は、肉体を直接的に誇示することはなく、「身体の極限の動き」による表現のみに特化されていた。そんな彼の振り付けた「静謐なアクロバット」は、21世紀を迎え、さらに未来へ向かって飛翔しているようにも思えた。
 モダンダンスの始祖の一人と言われているマーサ・グレアムは次のような言葉を残している。《ダンスの本質とは、人間を、心のなかの風景を表現することだと思う。わたしは自分のダンスのひとつひとつが自分自身を、あるいは、人間がなることのできる何か素晴らしいものを、表現していると願ってやまない》(マーサ・グレアム『血の記憶』筒井宏一・訳/新書館より)
 なんと真摯で、真剣で、生真面目な言葉だろう。暗黒舞踏や山海塾のアナーキーなまでの身体表現を既に目に焼き付けている我々現代人にとっては、モダンダンスも、20世紀初頭の輝ける未来への明るい希望と共に生まれたことが、この言葉からもよくわかる。
 その20世紀初頭の未来への希望は、二度の世界大戦や核の脅威と恐怖、地球規模の温暖化やパンデミックなどによって未来の見えなくなった現在、暗黒舞踏や山海塾などを経てどのようなカタチをとることになったのか? その疑問に対する回答こそ、ウランダンの舞台である、と言えそうだ。
 「静謐なアクロバット」には、三島由紀夫の言った《危険なまでの美しさ》は存在しない。が、それ以上の恐ろしさを私が感じたのは、20世紀のプログレッシヴ・ロックの大音量を遥かに凌駕する「静けさ」が、H・G・ウェルズの小説『タイム・マシン』に描かれた80万年後のデストピア(反理想郷・暗黒世界)を連想させたからだった。
 ウェルズの描いた超未来のデストピアでは、明るく暖かく太陽が降り注ぎ、緑の木々が生い茂り、色とりどりの花々が咲いている。そんな一見静謐な美しい自然のなかで、人間は、誰もが豊かに暮らしているように見える。が、彼らは地下に暮らす獰猛な一族の食料として、食べられるために生かされているだけの生物に過ぎなかった……。
 これは、あまりにも静謐な(平和に見える)舞台から頭に浮かんだ連想だが、そんな音の消えた静謐な世界(デストピア)のなかでも、「若者たち」は、互いに協力し合い、助け合い、懸命に身体を極限にまで動かしている(生きている)のだった。
 「若者たち」は何も言わず、黙って、ただ黙々と、自分たちの行うべき動きを、沈黙と静けさのなかで、協力し合い、助け合って、完璧にこなし続けていた。マーサ・グレアムの言葉が80万年後まで生き続けるとすれば、デストピアのなかでのその動き(ポストモダンダンス?)は、人間の身体の奥底にいつまでも存在するに違いない美しい心を可視化し、《人間がなることのできる何か素晴らしいもの》を美事に描き出した瞬間のように思えたのだったーー。
                  *
 私は、少々理屈を捏ねすぎたかもしれない。しかし、過去には見たことのない身体パフォーマンスを見せられ、しかも、それを大音量のBGMよりはるかに優る「沈黙」と「静謐さ」のなかで見せられた私は、過去の記憶のすべてを必至になって脳細胞に思い出させて、真摯な「若者たち」のパフォーマンスに対峙するほかなかった。それほど美事な、過去には出逢ったことのない傑出したパフォーマンスだった。

撮影:麥生田兵吾(umiak)

  • 玉木正之 masayuki tamaki

    1952年京都市生まれ。東京大学教養学部中退。スポーツライターとして新聞、雑誌、テレビ、ラジオのメディアで活躍。音楽評論家としてもオペラやクラシックの評論を手がける。主な著書は、『スポーツとは何か』(講談社現代新書)『今こそ「スポーツとは何か」を考えよう!』(春陽堂書店)『彼らの奇蹟』(新潮文庫)『クラシック道場入門』『オペラ道場入門』(小学館)など。訳書に、R・ホワイティング著『和を以て日本となす』(角川文庫)『ふたつのオリンピック』(KADOKAWA)などがある。

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