
撮影:福永一夫
水面に同心円状に広がる波、岸に寄せては返す波。波と聞けば、どこかで見た水の動きが心に浮かぶだろう。しかし概念としてのそれは、人間が眼で存在を確かめられる実体ではない。「波」とは、場の擾乱だ。それはつねに空間的に広がりながら前進し―「粒」が点として局所にしか存在しないのとは異なり―同時に複数の場所を占める。
本作『WAVES』は、2020年よりクラウド・ゲイト・ダンスシアター(雲門舞集)の芸術監督を務める鄭󠄀宗龍と、日本を代表するメディアアーティスト真鍋大度による構想のもと、この透明な「波」の概念をテーマに創作された。コラボレーションに際して真鍋のチームは、筋電センサーやカメラを使い、ダンサーの呼吸や筋肉の収縮を捉えたという。そのデータはAIによって処理され、知覚可能な色や音に変換された¹ 。『WAVES』では、こうして制作された映像や音、ダンサーたちの身体が共演する。
クラウド・ゲイト・ダンスシアターのダンサーたちは、人の身体や空間のなかを移動する「気」の流れや呼吸を意識した身体の使い方を日ごろから学んでいる²。それによって培われた技術であろう、出演者のダンサーたちはみな、自分の身体の部分と部分とが連動する、つながりの感覚を敏感にキャッチするのみならず、その感覚を持続させ、空間的にも広げることに極めて長けているようだ。
股関節からヘソの下、胸、肩甲骨、肘、そして手先へ。身体の隅々に伝播するエネルギーが、頭や指先に到達しても、そこが移動の終着点にはならない。皮膚という物理的な壁にとらわれず、そのエネルギーは身体の外側の空間へ広がったり、身体の中で折り返したりと、途切れることなく進み続ける。その軌道は一貫して、螺旋状である。
あるダンサーのソロでは、手首やひじの動きが作る小さな螺旋が印象的であった。関節のひねりや屈曲運動の影響が、身体の中で螺旋状に伝わり、見えないエネルギーとして手指の一本一本まで行き渡る。小指側から親指へ、そして親指側からまた小指側へ。この方向転換も含め、全てがワンストロークのなかで遂行される。その身体は、目に見えないエネルギーを伝える「波」そのものだ。

撮影:福永一夫
デュオの振付では、相手にリフトされたダンサーが空中から下りる瞬間、着地の衝撃を感じさせるどころか、身体に流れていたエネルギーが、足裏を通り越しその下へ伸びてゆくようである。クラウド・ゲイト・ダンスシアターの技術がここでも光っていた。
こうして他者の身体感覚が、観客に見えるものとして実感されるのは、ダンサーたちがその螺旋するエネルギーを、内的な感覚として体験しているだけではないからだろう。そこでは空を切る四肢やうねる胴体が、空間に運動の軌跡を描くことによって、踊りをある種の描く行為として成り立たせてもいた。台湾で実践される気功の一種「太極導引」や武術などをもとにした動きの方法論と³、西欧のダンスの影響を思わせる空間の活用法との両立が、折衷的な「波」を生み出していた⁴。

撮影:福永一夫
一方、真鍋のチームが手がけたメディアでは、つねに波らしい性格が見られたわけではない。例えば上演中によく耳に残ったのは、なめらかなフレーズやメロディーではなく、一定のリズムで刻まれる乾いたクラップやノイズのような音だった。それは喩えるなら、波というより、局所的な粒を思わせる。
舞台奥のパネルに映し出される映像のなかでは、エメラルドグリーンに色付いた無数の粒子が動き回り、それらは群として一つの方向性を示すことが殆どない。乱雑なパターンで運動する極小の粒の数々は、その手前で動くダンサーの身体とどう連関しているのか/していないのか、というこちらの関心とは無関係に存在するかのようである。あるシーンでは、粒子がダンサーから滲み出るオーラのようなものを連想させもしたが、その場合にも、粒は特定の流れや空間的なまとまりを形成することはない。そのうち、その映像に何を見るべきかが分からなくなってくる。

撮影:福永一夫
このような体験は、ひるがえって自分が何を踊りとして把握し、無意識のレベルで人の動きに何を期待・予期しているのか、という鑑賞行為そのものに意識を向けさせた。眼に見えない何かを前にするときでさえ、そこに因果関係や空間的な連続性といった秩序を読み取ろうとする、知覚の傾向がここで露わになったような気がする。
仮想空間の中で踊るダンサーのアバターたちもまた、本作における重要な演者である。アバターのファッションは、黒で統一された現実のダンサーたちの衣装とは違ってストリート系だ。物理法則から自由な「身体」は、自在にその輪郭を変化させる。
例えば作品の冒頭、暗闇の中にボウっと浮かび上がったアバターが歩き出すと、次第に足元から光の束が伸び、風に靡くように乱れてゆく。別のシーンでは、ストリートダンスの基礎練習のような動きを行う複数のダンサーたちが泡に変化し、まとまりを失っていく。さらにそれぞれの泡が一つに融合し、オールオーバーな光景へ変容していった。
終盤に現れた4体のアバターたちは、上肢をメインとした踊りを行うが、そこでは腕が動かされると同時に粒に変化し、周囲に散る。そして動きを大胆にしたり、スピードを速くしたり…と、運動のエネルギーが増大すればするほど、粒子化の具合が激しくなり、四方八方へ勢いよく放出されるのだ。そのダイナミックな変化には思わず注目してしまうが、こうして視線が惹きつけられる瞬間、眼で追うという経験が強制的にキャンセルさせられる。動きの目印となる身体の先端部や輪郭といったものが、もうそこに無いからだ。見る対象が与えられると同時に奪われもするという、この虚しくも新鮮な体験は、身体の外形や位置の移動を「踊り」とみなしやすい自分の眼、そしてそのような視覚に依存した鑑賞のあり方を相対化した。

撮影:福永一夫
さて、クラウド・ゲイト・ダンスシアターのダンサーたちのリアルな身体だけが、波のようで有機的な表現を担っていたわけではない。4分割された画面に、海底から水が湧き出るようなイメージが現れるシーンがあった。それまで抽象的な点だった粒は、ここでは湧水に動かされる砂粒のような印象を与える。内から外へ押し出される粒がつくる円状の形は、その内部から自己を産出し続ける、閉じられた生成システムを思わせた。
この砂粒の動きがゆったりしてくると、現実の世界では、ダンサーたちが素早いテンポでデュオの振付を展開する。逆に、スポットライトに照らされたダンサーが、身体内部の感覚に集中するように注意深く動くとき、映像の中の粒子は激しく動き回る。仮想と現実、それぞれの時間がコントラストを成しながら同じ舞台空間のなかを並走することで、静と動の表現がそれぞれに引き立っていた。手の甲と甲とを合わせ、祈りのポーズのように胸に当てるダンサーたちは、背後に流れる映像の忙しなさを他所に、澹澹とした水面のような穏やかさを守る。
やがて嵐のように動いていた粒子も次第に静かになっていく。舞台に立つ何人ものダンサーたちに波長を合わせるかのように、仮想空間のなかにも凪が訪れたようだ。作中に挿入された、束の間のクールダウン、沈静のひと時である。
踊りを見るのは「誰」か。センサー、カメラといった装置が見る世界の一端を、AIのおかげで垣間見られた気分になるのは傲慢かもしれない。だが少なくとも本作は、人間のパースペクティヴが、非人間的による観測のパースペクティヴより優れているわけでも、また劣っているわけでもない、そうした平面的な関係を想像させた。