
三木那由他(左)、和田ながら(右)
多様性が謳われる一方で対立や分断が深まる昨今、お互いをわかりあうことの難しさは、誰もが痛感していることだろう。「理解できないあなた」と共存するにはどうすればいいのか。2025年3月9日(日)ロームシアター京都で開催された「“いま”を考えるトークシリーズ」第24回は、その問いにコミュニケーション面から迫る2時間となった。
ゲストは、分析哲学の視点から日常会話におけるコミュニケーションを考察する言語哲学者の三木那由他さんと、身体を使って言葉と向き合う舞台作品を発表してきた演出家の和田ながらさん。対話は、それぞれの発表から始まった。
理解=知識、だけではない
三木那由他さんはまず、「理解する」という言葉の持つ意味に注目した。何かを理解する、というとき、まず思い浮かべるのは知識を獲得することだ。コミュニケーションにおいても、相手に自らのことを言葉で説明してもらうことによって知識を得れば、その人のことを理解できる、と考えがちだ。しかし三木さんは、「それだけではつらい」という。
「生きる上で障壁を抱えている人たちのことを知識としてはよく知っているけれど、かれらがスムーズに暮らせるような制度改革案には賛同してくれない人がいます。そういう人は、かれらのことを『理解している』と言えるでしょうか」。
理解=知識という考え方に立つと、周囲から理解されていない人は、理解してもらうために苦しさを抱えた自分のことを延々と言葉にし続けなければならない。それは不合理なことだし、理解できない相手に質問をし、答えが得られれば「理解できた」と満足してしまうことにも違和感がある。
哲学における「認識論」では、知識を2種類に分けて考えると三木さんはいう。1つは、「事実を知っている」という意味の知識。もう1つが、「やり方を知っている」という意味での知識である。
「事実の知識」は、本を読んだり検索したりすることで得ることができる。一方、「やり方の知識」は、失敗を繰り返しながら練習して次第に獲得する知識だ。自転車の乗り方は、いくら本でペダルの仕組みや人間の足の動きを学んでも会得できないが、何度も転びながら練習することで身につけていく。
三木さんが抱いた違和感は、「他者を理解する」という行為を、前者の「事実の知識」のみに頼っていることに起因していた。
「相手に言葉で説明してもらうだけでなく、その人と一緒にやっていく方法を共に作り上げていくことが、他者の理解につながるのではないかと考えています」。
プラグマティズムが唱える「やり方の知識」
この普段見落とされがちな「やり方の知識」を重視するのが、アメリカ発祥の哲学潮流「プラグマティズム」だと説明した上で、三木さんの話は人間同士のコミュニケーションへと展開していく。
コミュニケーションにおいて、話し手と聞き手の間には共通の「対応表」が存在している。話し手がイチゴを思い浮かべながら「イチゴ」と発すると、聞き手は同じ対応表をもとに「イチゴ」というメッセージを脳内に復元する。共通の対応表があるからこそ、思っていることが相手に伝わるというのが通常の考え方だ。
しかしこの考え方は完全ではない。私たちは会話において、言葉の意味そのものを超えたメッセージを伝達しあっているからだ。「今晩、帰りに飲みに行かないか」と誘われて「明日、朝イチで仕事なんだよね」と答えた場合、対応表的なメッセージは「明日朝早くから仕事がある」だけだが、実際には相手の誘いを断るという重要なメッセージが含まれている。つまり聞き手は対応表を見るだけでなく、話し手の意図を想像して脳内にメッセージを復元しているのだ。
ただ、いずれの見方を取るにしても、このような話し手が持つ伝えたいメッセージを聞き手が受け取って取り出す「バケツリレー式」のコミュニケーション観は、「事実の知識」の考え方とパラレルだ。コミュニケーション=話し手の心の中にあるものを聞き手に受け渡すこと、という前提は、自分を理解してもらうためにはメッセージをきちんと伝えるべきだし、相手を理解したければ当人に聞けばいい、という発想につながるからだ。
三木さんは、そのようなコミュニケーション観を考え直したいのだ、と強調した。
約束事の形成としてのコミュニケーション
話し手が「イチゴっておいしいよね」と口にした場合、聞き手は「この人はイチゴが好きなんだな」「次回イチゴをお土産に持っていけば喜ぶだろうな」と考えるだろう。つまりこれは、この人はイチゴが好きな人だから、今後はそのつもりでお互い振る舞っていきましょう、という約束事の形成なのだ、と三木さんはいう。会話によって以前から存在するメッセージを受け渡すというよりは、むしろこの先のお互いの振る舞い方を約束しているというのである。
「理解できない他者とのコミュニケーションにおいて問われているのは、約束事への従い方を相手とともに練習し、作り上げていこうとする意志なのではないかと思います。やり方の知識は、1回のやり取りでは獲得できません。失敗しながら根気よく身につけるほかないのです」。
理解できない他者とのコミュニケーションの理想系として、三木さんは最後に万丈梓の漫画『恋する(おとめ)の作り方』のワンシーンを紹介した。他者に恋愛感情を持たないアロマンティックの女の子に片思いをした男の子は、彼女は自分に恋愛感情がないとわかりつつ告白を繰り返していたが、次第に恋愛に発展しなくてもいい、恋人でも友達でもない間柄になろうと決意する。
「男の子はアロマンティックについて、知識としては理解しても、わかりきることはないでしょう。それでも一緒にいたいと約束の守り方を2人で見つけようとする。こうしたあり方こそが、理解できない他者とのコミュニケーションには必要なのではないでしょうか」。
「演技」が戯曲の「理解」を促す
和田ながらさんは、まず演出家の仕事について紹介した。
和田さんの作品の作り方には、主に2パターンがある。1つ目は、他人の戯曲や物語を読み解き、稽古を重ねて上演するという一般的なAパターン。もう1つが、創作の前提となる戯曲や物語はなく、特定のモチーフを上演用台本に組み立て、稽古を重ねて上演するというBパターンだ。
両者は俳優と共に演技を考え、実践するという意味では同じだ。その「演技」こそ、和田さんが演出家として最も関心を寄せている行為だという。
「なぜ人は演技をするのか。なぜ人は演技している人を見るのか。演技したい人がいるのはなぜか……考えているとおもしろくて、飽きることがありません」。
Aパターンの作品における「理解できないあなた」は、戯曲とその作家だ。一読しただけでは全貌のわからない難解な戯曲が多いため、稽古は理解が不完全な状態で始めることになる。理解を深めるのに最も有効なのは、俳優に演じてもらうことだという。
「俳優に声に出してもらうと文字が会話という行為に変わり、目で読んでいたときにはわからなかった登場人物の間の微妙な力関係や感情の機微がはっきりしてきます」。
誰もが使う日常会話の枠組みに意図やメタファーが詰め込まれた戯曲の豊かさが、俳優との作業を通して浮き彫りになるのである。
和田さんが演出し、2023年秋に那覇文化芸術劇場なはーとで上演したジャン・コクトーの『声』、その好例だ。女性がひたすら電話をしているという一人芝居である。セリフの半分は女性が相手の話を聞く「……」で表されており、読んだだけでは意味不明だが、演じられることによって観客は電話の向こう側のことを想像せずにはいられなくなる。
理解できないと知りながら、それでも近づくには
Bパターンの「理解できないあなた」は、題材自体だ。例として、『擬娩』(KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMN)の一部が映像で紹介された。妻の出産に際して夫が分娩の苦痛を演じるという習俗にヒントを得た、妊娠出産を演技として俳優がリハーサルする作品である。
妊娠未経験の和田さんや俳優にとって、共感が困難な妊娠・出産という題材を、理解できないものと諦めながらも、それでも「演技という想像力」によって接近してみようとしたのだという。
上演後、俳優が綴った出演経験のレポートには、「言葉にされたことの裏側にはたくさんの言葉にされなかった(できなかった、したくなかった)ことたちがある」「私が誰かの言葉を借りるとき、わかったと思った瞬間、私の視界から誰かの姿は消えてしまう」「『擬娩』とは、未経験であることを経験することなのかもしれない」など、印象的な言葉が並んでいた。
インドのカースト制度をモチーフとした作品「『さようなら、ご成功を祈ります』――B.R.アンベードカル博士が1936年ラホール市のカースト撤廃協会の招待に応じて準備したものの協会側が内容が耐え難いと判断し招待を撤回したため実際には読み上げられなかった演説『カーストの絶滅』への応答」(京都芸術劇場 春秋座)を演じたのは、インド人男性俳優2名(英語話者とカンナダ語話者)と、日本人女性俳優1名(日本語話者)である。3人それぞれが隣の俳優のアイデンティティを演じることで、さまざまなギャップが見えてくる。また、日本人女性が演じるカースト外の「不可触民」であるインド人男性への差別構造は、彼女自身が日本で体験する女性差別とオーバーラップする。
「隣の人を役として演じる本作は、それ自体がお互いを理解しきれない前提で、どう近づきうるのかを試みるプロセスだったと思います」。
わからないままでいることの可能性
「他者の気持ちを考えましょう」と言われるたびにどこか胡散臭さを感じていたという三木さんは、和田さんの作品映像に刺激を受けたようだ。
三木:私は他者の身体的感覚はアクセスできないものとして、向き合い方のほうにフォーカスしてきたのですが、和田さんの作品では、理解できない他者を自らの身体で演じて見せている。こういう想像の仕方があるのか、と驚きました。
和田:最も重要な出来事――理解への断念や諦めきれない気持ちといった揺れ動き――が、演技を実践する俳優の中で起きているというのがおもしろいですよね。
三木さんの発表を伺って、演劇は特殊な「約束の仕方」が許されている分野なのだと感じました。俳優が演じる役は本人とは別物であること、演じられる内容は劇作家の作り物であることなど、複数の約束が演劇の中では自然と成立する。理解できないこと自体はネガティブではなく、その先に何が起こるかを考えられる体力を培うのが演劇なのではないかという気がします。
三木:「理解できないから諦めよう」でも「もう理解できた」でもない、思考を止めない方法を探したいですよね。プラグマティズムの創始者、チャールズ・サンダース・パースは、どれだけしっかりと理屈を打ち立てても、それに反することは起こりうるのだから、私たちは諦めずに常に新しいやり方を模索し、変化していくのだという「誤りうる可謬主義」を唱えています。和田さんが演劇で提示しているのは、止まるための「わからない」ではなく、常に変わり続けるための「わからない」であり、俳優さんはそれをパフォーマンスとして実践し、舞台上で見せてくれているのですね。
和田:そうですね。三木さんが「やり方の知識」は失敗しながら練習することで身につくとおっしゃったことにも勇気づけられました。演劇でも、稽古は試行錯誤の連続です。上演前に大量の失敗を経ていること、私もあなたも不完全だという理解が、演劇をリアルにするように思います。
三木:同じことを社会的差別についても感じます。マイノリティの人たちに対して、先読みして配慮するよりも、わからないことを前提にするほうが一緒にやっていける可能性があると思うんです。わからないままでいられる場所が必要だな、と。
和田:稽古現場でもそうなんですよ。事前に脳内で色々組み立てて稽古場に持っていっても、結局おもしろいものにならない。むしろこちらの意図を俳優が誤解して実践したときに、クリティカルな表現になったりする。大事なのは、稽古場で俳優とどれだけコミュニケーションをするかなのだと思うようになりました。
クロストーク後には、職場など日常生活でのコミュニケーションの悩みや、研究やクリエーションでの「理解」の深め方など、質問が次々と投げかけられ、2人はそれぞれの立場から丁寧に答えていた。やりとりから感じたのは、「わからない」を前提にすることで見えてくるものの豊かさであり、「理解できないあなた」の存在が示す希望であった。