
撮影:小川重雄
第3回京都モダン建築祭を通じて
劇場の熱気は秋の訪れと共に上昇する。それは西欧の伝統的な劇場のシーズンが秋に開幕することに由来し、この季節、劇場のスケジュールは様々な予約で埋まる。しかし2024年「第3回京都モダン建築祭」の開催日程は、サウスホールが奇跡的に空いていた。そのため、建築ツアーに加えて「イベントを企画したい」と劇場運営者と京都モダン建築祭主催者から筆者に相談があった。一大事であった。
劇場の起源は人類史と共にある。その黎明期における宗教的・政治的な様式儀礼から発展したものが現代の舞台芸術へと繋がる。紀元前ギリシアやローマの円形劇場は、その過程を今に伝える存在であり、日本では神話「天岩戸伝説」の神楽が原初であるとされ、とにかく、劇場は古代から現代に至り存在し続けるものであることは確かである。私は、その劇場の力を信じた。ロームシアター京都の建築と劇場の力、スタッフ関係者の力、京都岡崎という場所の力を信じた。その上で「未来を展望したい」と強く思った。筆者は現在進行形で、鳴門市文化会館(1982)の改修を進めている。ロームシアター京都を通じて、現在の地方都市社会の公共劇場建築を展望することに大きな意義を感じた。未来を展望し思い描くことは、建築家の仕事であり、何より劇場の使命である。
劇場ツアー『ふたつのコンセプト』
11月9日10日に劇場ツアーは開催された。両日はすべてのホールが稼働し、中庭のローム・スクエアと岡崎公園のそれぞれに催事があり、様々な目的で多様な人々が集う公共空間が具現し、場所の力は存分に発揮されていた。
建築ツアーでは関係者との打合せを重ね、ふたつのコンセプトを定め実践した。ひとつは建築家・前川國男との対話の追体験である。京都会館(1960)は、前川國男による一連の作品において転換点とされる。その設計を通じて、戦禍を免れた京都の街並みと建築群は、モダニズム建築の限界を感じ始めていた前川に大きな気付きを与えた。それを実際の素材と空間、過去資料を通じて直接触れ、更に改修設計者の立場からこれらとどのように向き合い検討を重ねたかをツアー参加者が追体験する企画である。
もうひとつは、奈落や楽屋などのバックヤードを通じた劇場体験である。第一線で活動するロームシアター京都の、舞台裏と劇場の技術的側面を開示する。普段触れることが出来ない劇場の裏側が機能の集合体であることを、実際の空間を通じて体験する企画である。これは今回新たな取り組みとして企画され、時にライブコンサート会場と化したメインホール脇の楽屋通路にて、遮音建具を介しても尚遮断しきれない演出用スモークの霞と大歓声の中でも実施された。

建築ツアーの様子(2024年11月撮影)
トークイベント『京都の前川國男から鳴門の増田友也へ』
11月10日サウスホールにて、鳴門市文化会館改修の監修者である京都大学大学院田路貴浩教授を招いて、同改修設計主任であり京都会館改修設計担当者の筆者との対話形式で開催された。モダニズム建築改修を通じて未来に何ができるのか、その発展的な継承について展望することをテーマとした。

トークイベントの様子(2024年11月撮影)
鳴門市文化会館の設計者である京都大学名誉教授・建築家の増田友也は、その作品の多くを京都と鳴門に残し、そのうち鳴門の作品群は鳴門市民会館(1961)から遺作となった鳴門市文化会館(1982)迄、実に19にも及ぶ。しかし、前川が京都に対して記したような明快なメッセージを、増田は鳴門に残していない。鳴門は瀬戸内海に面した豊かな風景と歴史文化を持つ。増田が訪れたこの時期、塩業近代化特別措置法(1971)を契機とした風景の転換期を迎えていた。増田の心の中に、鳴門の近代化はどのように映っていたのだろうか。
増田の故郷は鳴門海峡の対岸、淡路島の八木村(現:南あわじ市)にあり、歴史文化は阿波国徳島藩と一体にある。幼少期より踊りや唄、人形浄瑠璃をはじめとした豊かな民俗文化に慣れ親しんだであろうし、建築家として高度経済成長の時代の中、郷里に近い鳴門の近代化に向き合い、その長い歴史を経た風景と民俗文化が消失に向かう過程に、思いを馳せていたものと想像する。鳴門市文化会館の建築を通じて、何か荘厳な高みへ手を伸ばす姿勢と思いを感じざるを得ない。前川が京都を通じてモダニズム建築から伝統を捉え直したように、増田は鳴門を通じてモダニズム建築から原初へのアプローチを試みている。

鳴門市文化会館 撫養川から見る全景 左が文化会館、右が健康福祉交流センター 共に増田友也設計(撮影:神山アーカイブレコード 橋本敏和)

鳴門市文化会館 ホワイエ 改修調査中の筆者

⻄祖⾕の神代踊(2023年8⽉ 撮影:筆者)
増田の時代から現代に至り、地方都市社会の縮小は加速している。そこに生じる諸問題のうち、日々の生活や経済は喫緊の課題となる。その最中、永く継承されてきた数多の民俗文化が猶予なく消失しはじめている。時代の変化とはいえ、我々世代で潰えることの虚しさと無力を感じつつ、筆者自身も踠いている。この文化消失の大波は100年後の京都にも到達する。
20世紀の諸問題と21世紀の転換
美術史における美術作品への評価は、18世紀末にはじまるロマン主義以降「様式の洗練」から「芸術家の個性」へと転換しはじめる。これは現代美術評価に繋がる転換点であるとされ、近現代建築に対する評価もまた、その思想を背景に見出される側面も強い。転じて、建築は私財によって建設されたとしても大きな「公共性」を持つ。公共建築であれば尚更である。ここに建築が機能不全となった時、建築の何処に価値を置き改修更新するかの議論は矛盾として立ち上がる。その矛盾が大きく発露したのが京都会館改修であった。
日本において、モダニズム建築の思想は戦後社会の要請と広く合致した。人口も経済も国土開発も全てが急速に成長する20世紀であった。今はその20世紀が解けなかった、ないしは新たに生み出してしまった諸問題を解決しようとする21世紀である。科学技術の飛躍的発展を経ても尚、解けない問題は山積する。地方が豊かに存在しなければ首都圏も当然存在し得ない。これらを解決するアプローチのひとつに、文化芸術は存在する。21世紀の公共劇場建築は、まちづくりにおける地域活性化やコミュニティーの中心として在り続けることや、公共性理念と実践を通じた市民生活への高度な貢献が求められる。文化芸術を通じた社会福祉の充実も、喜びの具現も当然である。
劇場建築と都市文化の一体性
京都会館(1960)は、戦前の京都市岡崎公会堂(1917)が室戸台風により倒壊した跡地に建設された「公会堂」であった。「公会堂」として計画が始まった「第1ホール」は、その当初検討の内部空間形態から大きな変更なく設計は進んだ。その過程で音楽だけでなく演劇などの運用も後追いで求められたために、開館後直ぐに機能不全が生じる。その後、京都会館に代替する音楽専用ホールとして「京都コンサートホール」(1994)が完成。京都会館は機能不全を解消すべく大規模改修が検討実施され、現代の多目的ホール(音楽や演劇など様々な演目に対応出来るホール)として、同時に新時代の公共性思想を具現する劇場として再生した。これはトークイベントにて田路教授が触れた「京都と京都会館の歩みは、日本の公会堂・劇場ホール史の歩みそのもののようである」と。

⽊⼦⽂庫『京都市公会堂』全景[⽊⼦182-029]部分(所蔵:東京都⽴中央図書館)

京都会館 (提供:Okumura Isamu)

京都会館 第1ホール
パリにはオペラ座(王立国立歌劇場として13代目1875年)、ミラノにはスカラ座(公国立歌劇場として2代目 1776年)がある。劇場建築とそこに展開する公演の数々は都市文化そのものを示し、都市文化とは、これら建築と人々の日常を含めた活動によって顕在する。故に劇場建築は、活発な活動の場であり続けなければならないし、様々な災禍から復興し、社会の要請に応じて機能を更新することで、時代を超えて現代に引き継がれてきた。
ロームシアター京都から見える過去・現代・未来
建築ツアーとトークイベントは盛会裏に終え、その流れのままサウスホールホワイエにて関係者を一堂に集めた建築祭全体のクロージングパーティーが執り行われた。京都モダン建築祭の公開建築全体で延べ4万4千人もの来場を頂いたことを総括し、反省すると共に皆で喜びを分かち合った。
京都モダン建築祭は、ロームシアター京都の建築と劇場の様々な側面に改めて触れる機会でもあった。かつて過去を否定し、時代の寵児として脚光を浴びたモダニズム建築が、伝統をはじめとした様々な文化と向き合い、その歴史に参加して未来を展望し歩み続けている。劇場が存在する京都岡崎の場所の魅力も数えきれない。例えば第四回内国勧業博覧会(1895)会場跡地での開設にはじまる岡崎公園や周辺公共建築との連続性であり、平安時代の壮大な法勝寺に遡る悠久の歴史との対話であり、東山に向かう美しい風景の調和であり、幾重にも時代と文化が重なる。現代を生きる私たちは、この時の流れの過去と未来を繋ぐ存在であり、過去との対話なくして未来は存在し得ない。芸術分野では勿論、これは全ての日常生活へと繋がる。
ロームシアター京都(2015)は、前身の京都会館の改修を経た現代の劇場建築として見事に再生した。それぞれの時代の思いと技術を重ねるその歩みは、2025年に改修竣工から10周年、京都会館から65周年、その前身である岡崎公会堂から数えて109年目を迎える。